日本民族は「自然な握手」が苦手である

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「なんだ、この写真は?」と、治五郎などは不快な感情を抱いてしまう。

7日に開かれたネット番組の党首討論後、カメラマンの求めに応じて撮られたヤラセ写真である。結成されたばかりの立憲民主党・枝野代表(左から2人目)は「これから本気で闘う相手と、手なんかつなげるか!」と抵抗を示したようだが、結局は「まあまあまあ」の声に押し切られ、こういう不自然の極致みたいな写真になった。

よほど好意的に解釈すれば「公示後は、互いにフェアプレーで戦い抜きましょう」という有権者向けのアピールなんだろうが、有権者だってバカじゃないんだから、この写真のどこにも「真実」が存在しないことは考えてみるまでもなかろう。

日本人は歴史的に「握手」が苦手なのである。元をたどれば縄文時代から明治維新に至るまで、昼日中に他人の肉体に触るなどという経験をしたことがなかった。

初対面の人とでもハグして、同性だろうが異性だろうが「ほっぺにチュッ」なんてことは欧米でもモンゴルでも普通なんだけれど、それが出来る日本人は極めて少ない。

それにしても、この写真はヘンだよ。なんで右手と左手を交差させる必要があるのか? いっそ全員が互いに、ほっぺにチューし合えばええんちゃう? 

出来んじゃろう。出来んて。日本人じゃけんのう。(地球規模の視点に立てばワタクシたちの民族は相当、変わっていると考察されるのですが、いかがなものでしょうか)

 

 

イギリスのドラマは概してレベルが高い

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と言っても、他の国のドラマと見比べているわけではないので、ロシアやドイツやエジプトやブラジルのドラマが概して低レベルかと言えば、そんなことは分からぬ。

ただ、「名探偵ポワロ」=写真左=にしても「シャーロック・ホームズの冒険」=写真右=にしても「刑事フォイル」=写真下=にしても、治五郎は気に入っている。見た後で「なんだ、つまらん」と思わされたことが一度もない。

主演男優のうまさもあるし、ラストシーンの「落ち」に英国人独特のユーモアとエスプリ(これはフランス語だが)が漂っているので「さすがは元『大英帝国』と、シャッポ(これも仏語)を脱がざるを得ないのだ。(フランスのドラマはどげんネ?)

上記の英国ドラマは、いずれも賞味期限を過ぎてはいないが、最初の放送からは相当な時間が経っている。それが今でも見られるというのは歓迎すべきことであろう。

記憶力がワシの次元になると、ドラマの終盤になって「あれ? これは前にも一度見たことがあるぞ」と気づくことが多いが、それで損をしたと感じることはない。グリコのキャラメルじゃないが「一粒で二度おいしい」のだ。

〽としをとるのはステキなことです そうじゃないですか

 忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか

中島みゆきが〝老婆〟を歌った名曲「傾斜」(1982年)が耳に蘇るのである。

 

 

 

下赤塚有情

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久々に、板橋区赤塚2丁目に夫婦で足を運んだ。

ここに治五郎が住んだのは、2011年3月すなわち例の震災の直前から定年退職までの約2年間。それまで独居していた第二次「谷中庵」を追い出され(2階の大家が「たばこの臭いが上まで来て困るから」と契約更新を拒否)、今の妻のアパートに転がり込んだわけですね。この種の近隣トラブルは、ワシの宿命なのかもしれん。

とても世話になった「鳥茂」は、飲み屋ではなく鶏肉やウナギを店頭販売している。経営者は、ワシより少し年上のマサオさんとキミコさんの夫婦。マサオさんは、ウナギを上手にさばくくせにウナギの味は苦手らしい(紺屋の白袴というやつだね)。

息子の嫁さんが肉とネギを串に差す作業をしている傍らで、ワンカップ系の焼酎とビールをいただき(もちろん大好物のレバーや、マサオさんの苦手なウナギも)、外はまだ明るいが結構、いい気分になってきた。

なんちゅうか、この、アレだな(そこそこ酔ってきたかも)、こういう人たちというのは、かつてワシが毎日のように取材で会ってきたエライ人々(政治家や文化人とも限らない)とは全く違う味わいを感じさせる。山本周五郎原作、橋田寿賀子脚本の素晴らしい庶民ドラマが生まれていた可能性だってあるのだ!(勝手に悔しがってる)

近くの「のとや」=写真=に寄る。三越高島屋とは無縁な人たちの間では有名な衣料品店だ。破格の安い値段には何かしらの秘密があるのだが、品質に問題があるわけではない。寒い季節に備えて、店頭に出ていたチャンチャンコ(395円)を買った。(というか買ってもらった。なにせジゴローじゃけんのう。着心地? うん、悪くないよ)

 

ガムと名刺と記憶力

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〝お口の恋人〟ロッテが、こんなガム=写真=の宣伝に力を入れている。

「記憶力を維持する」というのが商品名なのだろうか? 新聞の1面に載った広告には「ガムで登場!」「歯につきにくいガム」「中高年向け」「ほろにがミント」などの惹句が躍っているが、肝心の商品名が判然としない。

「記憶力」に ※ が付いていて、小さな字で「言葉や図形などを覚え、思い出す能力を指す」と注がある。新明解国語辞典で「記憶」を引くと「過去に経験した事の印象や一度意識に止めた事の内容が脳裏にとどめられ、随時再現出来る状態にある(ようにする)こと。また、その内容」とあるが、ガムの広告にそこまで要求するのは酷か。

新聞広告では、典型的な中年サラリーマンのイラストにセリフが添えてある。いわく「以前、名刺交換した人に、また名刺を差し出してしまった」。このコピーを考えた人は、失礼ながら20代の「若造」ではないかと思う。

チッチッチ、甘いよロッテさん。記憶力が衰えるというのは、そんな生易しいものではないのです。同じ相手に名刺を2度渡してしまったような経験なら、ワシには30代の頃から何十回もある(自慢して言ってるわけじゃないんだよ)。

50を過ぎるとどういう事態に見舞われるかというと、さっき別人からもらった名刺を自分の名刺と間違えて初対面の相手に差し出し「おや? 記者さんかと思ったら映画会社の専務さんでしたか」と驚かれたりすることがある。

毎日会っている会社の上司や後輩とエレベーターで一緒になり、世間話を交わしながら(え~っと、この人の名前は何だったっけ?)と苦悶したことも数えきれない。

ミントガムを噛むぐらいで予防できたらノーベル賞ものだ! と叫びたいけれども、あまり言うと営業妨害で訴えられかねないから、やめておこう。

今は名刺というものを持たない身になって正直、ちょっと不便を感じる場面もないではないが、バカボンのパパみたいに「♪ これでいいのだ~」と、世俗を突き抜けた解放感に浸れる。豊かな老後とは、こういう状態を言う。(おいホントか?)

 

「増えること」と「ありがたみ」の哀しき相関関係

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ノーベル賞の季節である=写真は創設者=。日本のマスコミ界は総選挙を目前に控えて人手不足状態だから、日本人が受賞しないか戦々兢々としている。

ノーベル賞湯川秀樹朝永振一郎川端康成の受賞あたりまでは強烈なインパクトがあって、その後も何十年かは続いたが近頃は毎年、2人も3人も受賞するもんだから、治五郎みたいな者には覚えきれない。「へえ、また取ったか」てな感じ。

だんだんにノーベル賞の「ありがたみ」が薄れてきているのである。(平和賞や文学賞は、客観的な評価に無理があるのでワシは廃止論者だ)

ノーベル賞に限らず、日本人宇宙飛行士にしろ世界遺産にしろ、数が増えるにつれて貴重度が落ちてくる。世界中が世界遺産だらけになって、どこへも行く気が失せた。

受賞したり指定されたりした人や関係者だって「あ、また仲間が増えた。嬉しい!」とは思わないだろう。後続者には(あっち行けシッシッ)が本音ではあるまいか。

栄光は、なるべく自分だけのものに。これが人間の哀しい本性なんだなあ、と感じるにつけ、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はなるほど名作であったと思う。

 

 

 

 

逃げも隠れも致しません

f:id:yanakaan:20171004080937j:plain©益田ミリ

 

当ブログも始まってかれこれ3か月。本名を隠していないから、たま~にだが昔の知人・友人から「住所を知らせて」とメールが来るようになった。

過去10年ほどの間に何度か転居したが、挨拶状など1通も出していないから「あの男は生きてるのか?」と疑問を持たれるのは理の当然かもしれない。

ちょうど20年前に「生前葬」を挙行した際、まだブレイクする前の益田ミリさん=イラスト=(当時のペンネームはミリ マスダ)が参加してくれて、周りの顔触れを見て「治五郎さん(ではなく本名)って人間関係をリセットしない人ですね」と言った。

 ワシが彼女を招待客に加えたのは、そのころ出版した初の川柳集に感心したからだが(たとえば「脱ぐこともないしババシャツ着ていくわ」)、「リセットしない」とはワシが小池百合子とは思想を異にすることを20年前に見抜いていたわけだ。(まさか)

来たる者は拒まず、去る者は追わず。治五郎がリセットしないのは、この処世訓を拳拳服膺しているからだ。(ま、腐れ縁というものが嫌いじゃないんだわなあ)

どんどんビッグになったミリさん、どうしているだろうか。20年前に28歳だったということは・・・現在、38歳という計算になるか。

 

「ぶら下がり取材」って分かりますか?

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治五郎は元新聞記者だろう。ぶら下がり取材、やったことはないのか? 「へえ、やりました旦那。10回未満だと思いますが」。回数の問題じゃないんだよ。なあ治五郎。お前、人間として、お天道様に顔向けできるか? よう考えてみい。

(なんで、ワシはこんな説教を受けなきゃならんのだろう)

テレビ報道で有名になった「ぶら下がり取材」というのは、正式な記者会見や独自取材とは別に、メディア各社が国会議事堂の廊下などで(標的に群がって)「ひとこと」を得る空しい作業を意味している。(かなり、見苦しい)

「ぶら下がる」とは「上方を何かに支えられて空中に垂れ下がる」こと(新解さん)であって本来、取材の仕方とは何の関係もない。

ただし! 過去に「ぶら下がり取材」を経験した者は(あ~、人には見せたくない姿だったなあ)と悔いている。そこんところを、人には察してほしい。

「旦那、アッシも目が覚めました。明日からは真人間を目指します!」(誠意ゼロ) なんて、ワシが言うわけないしなあ・・・。

財布の中の紙幣についてお尋ねします(続き)

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治五郎が尊崇する内田百閒先生が、どこかで「一度、こんなことがしてみたい」という〝夢〟を語っている。(例によって、出典を明示できる記憶力がワシにはない)

武器を持って金融機関に押し入る。銀行強盗=写真=である。百閒先生は妄想のスケールが常人とは違うので、標的は確か日本銀行本店だったと思う。

「金庫にある紙幣を全部、ここに出して並べなさい」。行員が脅えて言葉に従う様子を確かめてから、おもむろに次の命令を下す。

「表裏も上下もバラバラじゃないか。これをキチンと並べ直しなさい」

何時間かで終わる作業ではないと思うが、それを見届けた百閒先生は満足顔で(何も奪わずに)悠々と外に出て行くわけである。(カッケー!)

こういう変な「夢」に、ワタクシは強い共感を抱いてしまうのですよ。(類は友を呼ぶ、と申しましょうか。あるいは同病相憐れむと申しましょうか)

ワシが百閒ワールドにハマったのは20代後半のことで、当時は縦のものを横にすることが出来ない極度に几帳面というか神経質な性分だった。今は、机の上などは乱雑でないと落ち着かない。

性格というものは血液型と違って、生きているうちに変化するものである。ただ、財布の中の紙幣の並べ方のように、どうしても変わらない部分もあるわけです。

 

 

 

財布の中の紙幣についてお尋ねします

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1万円札が何枚で、千円札=写真=が何枚あるかという質問ではありません。他人様の懐具合になど興味は全くない。(というか、興味を持つような余裕が自分にない)

仮に1万円札が2枚、5千円札が1枚、千円札が5枚あるとしましょう。計8枚だ(足し算は合ってるかな?)。その8枚がどういう状態(順番)で財布に入っているかを、お尋ねしたいのです。3択で行きますぜ。

❶at random。札の並べ方なんて、どうでもいいから考えてみたこともない。

❷下の方から万札、5千円札、千円札の順(あるいは、その逆)。表裏や上下には、こだわらない。

❸表裏・上下にも徹底的にこだわる。福沢諭吉の下に逆向きの野口英世がいたり、樋口一葉が諭吉や英世と接吻するような事態だけは避けなければ!

何を隠そう、治五郎は❸型です。几帳面とか神経質とか、表現方法はさまざまだが、要するに「ちょ~っと変」なんだね。

いかん、仕事がはかどらん! 続きは明日また書きます。

 

 

 

老いらくの「街歩き」で疲労困憊

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午前10時、早稲田大学大隈重信像=写真=前でカメラマンと待ち合わせた。都電荒川線の終点で下車すれば5分で着けると踏んだのが甘く、久々の早大構内で、さっそく迷いかける。(母校ではないが、過去に仕事関係で10回前後は来ているのに)

初対面のカメラマンにはメールで「野球帽をかぶった、むさくるしいジジイ」と自己紹介しておいたので、相手はすぐにワシを認識し直進してきた。40代、一見して闊達な性格らしく、なかなかのイケメンである。柄本明みたいなタイプだったらどうしよう(外見と役柄の印象だよ)と少し心配していたので、すっかり安心した。

街歩きルポというのは普通、さまざまなパーツから構成される。写真さえ押さえておけばいいだけの有名なスポット、人に会って何か面白い話を聞き出さなければならない施設、味を自分の舌で確かめてから褒めるべきレストラン、等々・・・。

今回のコースは早稲田~神楽坂。メーンは、夏目漱石が晩年を過ごした早稲田南町に完成した「漱石山房記念館」だ。数年前までは住居跡にあった「漱石公園」で、いちど探し当てたことはあるが今や単独での再訪は不可能。カメラマンのGPSが頼りだ。

午後は、編集部が指定してきた幾つかの名店を早稲田通り沿いに訪ね歩いた。「急に来られても・・・あらかじめ社長に文章で取材の趣旨を伝えて、許可を得て下さい」という店が多い。(アンタら役人か⁈ と怒鳴りそうになったが我慢した)

遅い昼食を、「見番横丁」にある評判のフランス料理店で食うた(この辺の路地は昔、よく夜に彷徨したから詳しいんだが、日中だと勝手が違う)。フレンチと言っても、ランチ(ワンプレート+パン+珈琲)は税込1000円。

肉系と魚系を一つずつ注文し、屋外テラスで撮影してから体に摂取する。ボリュームも味も(値段も)ワシには申し分ない。こういう店に入って男二人で食事した経験は何度もあるが、やはり、イケメンより(容姿にかかわらず)相手は異性の方がいいね。

JR飯田橋駅周辺で何度目かの迷子になりかかり、お茶の水駅からのバスが渋滞に遭ったりして、家にたどりついた時はヘトヘト。締め切りが近いから本当は、ブログで憂さ晴らしをしている場合ではないんだが。