「平家物語」と宇宙

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 治五郎は仏教徒ではないし、キリスト教イスラム教、ヒンズー教とも無縁に生きてきた。「諸行無常」や「色即是空」などの意味も、少しは分かっていそうな顔をしていて実は、全く分かっていないと断言するだけの自信がある。(自信というか?)

「私は生来、イワシの頭というものが何よりも尊い存在だと思います」と言うなら、それはそれで尊い心事かもしれないし、「これをマグロの頭やトビウオの頭に置き換えることは絶対できない。なぜなら・・・」と力説するのも個人の自由だろう。

しかしイワシ、いやワシが思うに、いろいろな宗教の違いというものは畢竟、イワシとマグロとトビウオの違いである。それぞれの魚が棲息する海域や習性が異なるだけではあるまいか。

自然の現象や生命の仕組み、とりわけヒトのココロなど、昔は誰にも説明できない不思議だらけだった。「これは人知の及ばない何かが存在していて、森羅万象を取り仕切っているに相違ない」と考えるのは当然のことだろう。「神」の出番だ。

自然科学というものが発達してきて、いろんなことが分かってきたけれども、分かれば分かるほど、分からないことも増える。イワシもマグロもトビウオも、信仰する人がいる今のうちが「華」なのではないだろうか。

日本に「平家物語」=写真左は絵巻=という長ったらしい戦記文学があるが、つらつら鑑みるにワシは平家物語が一番、好きだ。今も影響を受け続けている。

平家物語の作者は、いまだに特定されていない(が、特定なんかしなくていいのだ)。彼が何を言いたかったのかといえば、こういうことだ。

「あんた方、もう十分に栄えたでしょう? あとは滅びなさいよ」

盛者必滅。地球人全体が、このメッセージを受け止めるべきではないだろうか。たかが数千年の文明なんて、何十億年の宇宙=写真右=の前では「無」に等しい。

原爆なんてものを発明しておいて、この本質的に愚かなヒトという生物が、あと100年も1000年(!)も棲息できると本気で考えてるんですか? まさかね。

人類の繁栄によって、地球という一天体が瀕死状態に陥っている。しようがないんじゃない? 地球は、そろそろ滅亡すべき時期なんだろう。宇宙の中で、何十億分かの一に当たる迷惑な惑星(略して迷惑星)が消えていく。上等じゃねえか。滅びようぜ。

(これは過激でダメな思想でしょうか? ワタクシはそう思わないのですが)

 

 

 

 

 

沖縄はモンゴルに似ている! という民俗学的発見

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「何を寝ぼけているんだ。沖縄=写真左=は四方八方、海だらけ。モンゴル=写真右=は面積が日本の4倍もあるのに海とは全く無縁。気候も人々の暮らしも180度違う。どこがどう似ているというのか?」と、首をひねる人が多いだろう。しかし!

治五郎はモンゴルにはまって以来、なぜか南の島々を訪れる機会が激増した(自分で用を拵えて出張するわけだが)。米軍がのさばっている沖縄本島よりも、八重山諸島が中心である。石垣島西表島波照間島竹富島久米島・・・ずいぶん行った。

人気(じんき)が妙にモンゴルと似ていることに気づき、考察を続けること1~2年。あるとき忽然として悟った。「海=草原」「舟=馬」だったのだ。

ここからどのような合意・信仰が形成されるかというと、水平線(地平線)の彼方からやって来る未知の人間を「敵」ではなく「神」だと感じる穏やかで平和な心根だ。折口信夫の言う「まれびと=まろうど」(来訪神)にほかならない。

だから知らない人が訪ねてくると、とりあえず最大限のもてなしをする。モンゴルでは一家の何十日分もの食糧である羊を一頭、殺して供されたりすると恐縮してしまうが、こっちはなにしろ「神」なのである。(ずいぶん俗物的な神がいたもんだが)

時間の感覚もソックリで、待ち合わせの時刻に1時間や2時間遅れるのは遅刻のうちに入らない。(もっとも地球規模で考えれば、これはウチナンチュ=沖縄人=を除く日本人の感覚の方が特殊で異常だと言えるかもしれない)

 宴会の道具立てなども共通点が多い。沖縄の蒸留酒泡盛」に相当するものが、モンゴルでは「アルヒ」と呼ばれる。アルコ-ル度は(いろいろあるが)平均40度。早く確実に酔えるが翌朝はスッキリしていて、治五郎の体質には最も合っている。

10人なら10人が集まって飲む時に「どうしても三味線を聴きたい」という日本人は今どき珍しいと思われるが、沖縄ではどうしても「三線(蛇皮線)」が必要だし、モンゴルでは「モリンホール(馬頭琴)」がないと物足りない。

ウチナンチュの〝主食〝は穀物ではなく豚、モンゴル人のそれは羊と目される。耳から爪先、尻尾に至るまで無駄にしない(できない)ところも同じだ。

こうして列挙するだに「ただ事ではない」と痛感される。だれかキチンとした民俗学者文化人類学者が、この問題を体系的に解明してくれないものだろうか。

 

 

 

 

 

 

女子スポーツ雑感

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平昌五輪が近づいたからといって、騒ぎ立てる気はない。治五郎はウィンタースポーツにあまり関心がないのだ。しかしまあ、せっかくだから。(何がせっかくなんだ)

 治五郎も男であるからには、一定の年齢以下の異性が若い肉体を躍動させる姿を見るのは決して嫌いではない。(むしろ大好きと言っていいかもしれない)

しかし当然ながら、若い女が躍動していれば何でもいいというわけではない。

フィギュアスケート=写真左=のように、審査によって「美」が判定されるような競技に、ワシは根本的な疑問を感じる者である。早い話がチビ・デブ・ブスは最初から「排除」される。いくら才能や情熱があっても、いくら努力しても、ダメなのだ。

不条理ではないか。(どん!)

それでもスポーツと言えるのか。(どん、どん!)

スポーツの前では誰もが平等だ、なんていう言葉は、ウソッパチではないのか。(どん、どん、どん‼)

容姿に恵まれなかった幾万人の乙女が、陰で泣いてきたことだろう。どん、ど・・・ま、最近は血圧が高めになっているから、この問題はこの辺でやめておく。

 

カーリング=写真右=という競技がある。氷の上を必死の形相で床掃除して、何がそんなに面白いのか? と昔は不思議に感じたものだ。が、よくよく観察すると、この競技には底知れぬ深みがある。

いろんなスポーツ(ゲーム)の要素を内包しているのだ。ボウリングやビリヤードに似ているかと思えば、先の先を読むという点では将棋や囲碁に通じるところもある。肉を切らせて骨を切る、という「凄み」さえ感じられないではない。

色白の美形で鳴る藤澤五月選手(写真中央)について、スポーツ界の御意見番・張本勲が好感を表明していた。ニッポンのお爺さんで、彼女が気に入らないという人がいたら会ってみたい。(会ったって話すことは何もないんだが)

男子ではなく女子に限るが、カーリングを水着でやることにしたらファンも視聴率も倍増するに違いない。しかし選手は寒いわなあ。(あ、バカなことを申しました)

 

宮沢章夫「考えない人」を味読する

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 知ってますか? 宮沢章夫(1956年生まれ)。

 治五郎は残念なことに、演劇というものに疎い。かつて岸田國士戯曲賞を受賞した劇作家・演出家だと聞いても、どのくらい偉い人なんだかよく分からない。

ただ、文章の面白さは「牛への道」「わからなくなってきました」を読んで以来、「これは東海林さだおに匹敵する逸材だ」と確信するようになった。ショージ君といったらアンタ、治五郎が30歳の頃から「一に百閒、二に江國、三、四がなくて五にショージ」と崇め奉ってきた日本屈指の名文家である(百閒は内田百閒、江國は江國滋)。その第5位を脅かしそうな存在なのだ。

 

プロ野球の中継で、大差をつけられて劣勢のチームに連打が飛び出し満塁になったりした時、アナウンサーが叫ぶでしょう。「さあ、わからなくなってきました!」

この「わからなくなってきました」に宮沢章夫は鋭く反応し、トコトンこだわるのである。想像の翼が、とめどもなく広がる。「もし、たまたま乗ったタクシーの運転手が同じ言葉をつぶやいたら・・・」これは、かなり不気味である。怖い。

今、久しぶりに宮沢のエッセー「考えない人」=写真はロダンの「考える人」=を読んでいる。例によって、億劫だから内容は紹介しない。パラパラとめくって「なんだ、ばかばかしい」と感じる人は、ゴルフでもして来なさい(連休中だし)。

しかし当ブログを読むような変人には、一読を薦めたい。(新潮文庫で読めます)

 

読了後の補足:「私は治五郎さんほど暇じゃないんですが」という人(特にプロ野球のことが多少は分かる人,、いや、むしろ野球のヤの字も知らない人)は、巻末に載っている「二〇〇二年十月十七日(木)」という文章だけでも立ち読みしてほしい。一見、相変わらずの「おかしなおかしなエッセー」には違いないが、これは上質な短編ミステリーだと思う。いや、感服した !

 

 

キミは、この三つをどのように区別するか

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 11歳下の実妹が、ちょっと面倒な病気で入退院を繰り返しているので時々、見舞いに行く。病室に泰西名画=写真左=をプリントしたビニールファイルがあった。「おっ、カラヴァッジョだな」と言ったのは知識の浅い兄の虚栄であって、16世紀だか17世紀だかのイタリアの画家だということ以外、実はほとんど何も知らない。

カラヴァッジョという固有名詞を口にした瞬間、全く別方面の連想が働いた。「なんだっけ、イタリア料理だ。ほら、あの、生の魚や肉を薄切りにしてオリーブ油なんかをかけたやつ。しばらく食ってないなあ。カラ、カル・・・」。2~3分かかって思い出した。「そうだ、カルパッチョ=写真中=だ!」

ところが絵に目を戻すと今度は、さっきはすぐに思い出したはずの画家の名が出てこない。「カル、カラ・・・・・・ああ、カラヴァッジョだった」(ほっ)

しかし、まだ何か連想の余地がある。今度のはイタリアンじゃなくスペイン系のような気がする。冷たいスープの傑作。「え~っと、パッチョ、パッチョ・・・あっ、ガスパッチョ=写真右=か!」(ところで画家の名は何だっけ)

一つを思い出せば一つを忘れる。カラヴァッジョ・カルパッチョ・ガスパッチョが頭の中で堂々巡り。〝緩慢なモグラ叩き〟とでも言うべき状況だ。これに「カラムーチョ」(スナック菓子)が加わったりしようものなら、もはや収拾はつかない。

が、ゆっくりと着実に進行する「ボケ」という大局的見地に立てば、こんなのは序の口。めげてはならない、と己を奮い立たせる治五郎なのであった。

 

文化の日、早朝に届いた支援物資

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先月のサンド会に列席した「葬送研究家」の河内女から「金曜日の朝、届け物がある」という連絡があった。8時というから、お迎えしようと7時40分にドアを開けると、すでに置いてある。

「客が多い時に、あれば便利」と先日話題に出た折り畳み式の補助テーブル、保温式の寸胴鍋のほか、段ボールに各種缶詰・瓶詰、食器類、大きなソウメンカボチャ(金糸瓜)=写真=まで入っている。宅配便ではなく、自家用車で届けてくれたのである。

「難民」とか「慰問袋」という言葉が脳裏をよぎった。治五郎夫婦は生活に困窮しているというほどではないが、人が下さるものはありがたくいただく主義。

<ひとり死>の時代、所有者のいなくなったモノが大量に捨てられているそうだが、1枚の皿にしたって捨てられるよりは誰かに使われる方が嬉しかろう。「使い捨て文化」なんちゅうものは文化ではない! と「文化の日」に改めて考えさせられた。

どれ、ソウメンカボチャを使った料理のレシピを検索してみるとしよう。

 

〝快適中毒〟の行き着く先は

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治五郎が最初に言い出したと主張する自信はないが、「健康病」という言葉がある。人生で何よりも大事なのは「健康」だ、という信念が高じた人が発症する。

健康雑誌サプリメントを買い漁り、健康にいいと聞けば試さずにいられない。健康に悪いと言われる行為を極端に恐れる。道路の向こうでタバコを吸っている人を見ても、受動喫煙の害に脅える(そのくせ大通りの排気ガスは気にならなかったりする)。

現代病・文明病の一種と考えられるが、同系列の症候群に「快適中毒」があると思う。

温水洗浄便座=写真=の普及には目覚ましいものがあるが、生まれた時から家にこれがあると、子供にどういう問題が起きるか。学校などのトイレがシャワー付きでないと、「ウンコが出てこない」という子が「出てくる」のである。

お尻を洗ってくれる便利な装置が出現したが最後、人間は汚い尻を自分の手では拭けなくなる。まして、しゃがんで用を足したり「ボットン便所」に落としたりは出来ない。野グソなんて、もってのほか!

快適さというものには必ず、中毒化して際限もなく増幅する性質があるのだ。覚醒剤に似ていると言っても過言ではない。「快適やめますか? 人間やめますか?」てなもんや三度笠。少し難しい化学用語を用いれば、これを「快適度の不可逆性」と言う。

昔の便所には神様もいたし、お化けも出た。暗い・臭い・汚い。この「3K」が、子供たちに豊かな想像力と感受性を付与してきたのだ。しかし便所がトイレになると、そこは明るくて清潔で芳香が漂う空間と化した。失ったものが大きくないだろうか?

「また、耄碌ジジイがバカなことを」と思ってるでしょう。でもね、今宵に限ってはワシも結構「ウン蓄」を傾けられたような気がしているのですよ。ははは。

 

四股名論

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大相撲九州場所(11月12日初日)の番付が発表された。先場所が終わった時点で上位の顔ぶれは予想できるので、特に目新しい内容ではない。(相撲に興味のない人は、プロ野球でも見てて下さい。いま日本シリーズやってますから。まあ、今年はソフトバンクの優勝でほぼ決まりみたいだが)

相撲中継で治五郎が見逃さないよう心掛けているのは、土俵入り=写真=だ。場内放送は若手の行司が当番制で担当しているようである。「先導は、木村銀治郎」「続いて、宇良。大阪府出身、木瀬部屋・・・」という風にアナウンスは進む。

あれを、耳で聞く前に頭の中でそらんじるのである。一人ひとりの間隔が短すぎず長すぎず、衰えゆく頭脳のトレーニングにはちょうどいい。

四股名」というのは借字で、正しくは「醜名」と書く。新解さんは、例として双葉山大鵬北の湖を挙げている(惜しむらくは、少~し古い)。

千代〇〇といえば九重部屋、〇風といえば尾車部屋、貴〇〇といえば貴乃花部屋というように、所属する部屋が分かるケースも多いが、高安や遠藤のように本名で通している頑固なタイプもいる(それはそれで問題ナッシング)。

力士の名を聞いただけで師匠の現役時代の四股名と顔、得意技などがパッと浮かぶようになれば、スー男(相撲好き男子)も初級から中級に差し掛かったと言えよう。

式秀部屋(師匠は元前頭の北桜)はユニークな四股名の力士が多いので有名だが、あまり凝るのもいかがなものか。爆羅騎(ばらき)、冨蘭志壽(ふらんしす)、宇瑠虎(うるとら)、大当利(おおあたり)・・・いい加減にせんかい。

ワシが気に入っている四股名は、錦戸部屋の「極芯道」。なにしろ「芯の通った極道」だもんね。まだ21歳だが、幕下の上位に上がってきた。九州場所ではキッチリ落とし前を付けてくれそうだ。

 

 

 

犬型の人間が猫型になっていく経緯

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〽 犬は喜び 庭駈けまわり、猫は炬燵で 丸くなる。

これは、犬=写真左=と猫=写真右=の性向を7・7・7・5のリズムで見事に表現した都都逸(じゃなかった、明治時代の文部省唱歌「雪」の一節)である。

治五郎は本来、犬も猫も嫌いではない。牛や馬、羊なども、生きている状態は好きな方だ。(牛・馬・羊は肉の味の方が、もっと好き。人間とは恐ろしい生き物である)

犬のイメージは、健全で前向き。人間(特に飼い主)に対して忠実。献身的で期待を裏切らない。「どこまでもついて行って、お役に立ちます」と考えている。

片や猫のイメージは、わがまま。ぐうたら。マイペースで、何もせずに餌をもらうことに全く引け目を感じていない。「かわいがるのはアンタの勝手」と思っている。

ワシ自身は犬型か猫型か、内省してみよう。

少年時代は、犬型の「いい子」だったと思う。それが、大人になると「世間」というものが分かってくるし、色恋沙汰も経験する。何より「酒」の味を覚えると「いい子」であり続けることは年々、困難になる。今の年齢になると、もう完全な猫型である。

犬に、こんな目で見つめられると、ワシゃつらくなって行き場を失う。いたたまれない気持ちになるのだ。だから中年以降、犬は大の苦手だ。その点、猫はいい。(このアクビ姿を見るがいい。いたたまれない気持ちになんか、全然ならない)

(ハチ公や、ワシはお前の信頼や尊敬に値するような人間じゃないんだ。ブログでは明かせないが、いろいろ良くないこともしてきた。運が悪けりゃ訴えられたり逮捕されたりしていてもおかしくはない。なに、それを聞きたいって? どうしても? じゃ、タマが寝ているうちに、その塀の陰に行って待ってなさい。長い話になるから、オシッコは済ませとくんだよ)

 

 

美人ではないと判定された女は、どうなるか?

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即答します。どうにもなりません。(絶望的だという意味ではなく、逆に「必ずどうにかなるものだ」という意味です)

<自分が美人だと気づいていない美人はいないか?>という記事をアップしたのは3日前。ブログの「アクセス解析」によると、この日だけアクセスが急増した。前にも1、2度そういうことがあったが、タイトルによって読者が増えたり減ったりするものなのかどうか、その辺の仕組みが治五郎にはよく分かっていない。

 そもそも「美」とは主観的なものだろう=写真は、明治時代に物議をかもした黒田清輝の「朝粧」=。それを客観化しようとするから面倒なことになるのだ。美人の判定基準は、甘くすれば国民全体の66%、厳しくすれば99%が美人と認めるかどうかにかかっていると言われる。(ホンマかいな)

問題は、どんなに基準を甘くしても「明らかに美人ではない」と判定された場合であって、ワシなどは寛容な方だから「決して美人とは言えないが、まあ十人並じゃない?」で済ませるが、実社会というものは辛辣で残酷な側面を有するから、醜女(しこめ)とかブスなどという身も蓋もない言い方が横行する。

昔は「悪女」といえば、中島みゆきが歌っているような意味ではなく「醜女」の同義語だった。「悪女の深情け」が好例だ。このことわざを、新明解国語辞典はどう説明しているだろうか。

【悪女の深情け】醜い女性に限って愛情がこまやかであったり嫉妬深かったりして、男の方でいい加減いやになってもなかなか縁を切る機会が得られないものだ。[俗に、ありがた迷惑の意にも用いられる]

 他の辞書には真似のできない新解さんの本領、それは「いい加減いやになっても」の一言にあるとワシは思う。ここに新解さんという一人の男のほろ苦くて深い人生経験が凝縮し、底光りを放っている。

蓼(たで)食う虫も好きずき[=人の好みはさまざまで、外部からは分からないものだ]ということわざもある。「なるほど」と納得させられる実例に出会う機会は多い。

結論。美人ではないと判定されたからといって、それがどうということはない。一般的傾向として、よく「美人は冷たくてブスは明るい」と言う。世の中というものは結構、うまく出来ているような気がする。