日本人の姓名は難しい(続き)

f:id:yanakaan:20180213122239j:plain f:id:yanakaan:20180213122304j:plain

 「コンバンワ。私ハ、日本人ノ姓名ニ関心ヲ抱キツツアル事ヲ自覚シテイマス」

「またヘルマンか。その関心については先刻承知だよ。今度は何だい」

「治五郎サン。私ハ驚イタノデス。本当ニびっくり仰天シタ次第ナノデスヨ。聴イテ下サイマスカ?」

「い、いいとも」(この青年の日本語は、かなり立派だ。ただ、何かがナニなのだ)

「私ニハ、心カラ愛スル日本人の女優ガイマス。コノ日本語ハ変デスカ?」

「いや、変じゃないが『愛する』よりは『大好きな』ぐらいの方が無難じゃないかな。『ぞっこん』とか『首ったけ』いう言葉もある。愛情が一方通行だというニュアンスも示唆できる。ところで、ヘルマンは誰を愛してるんだ?」

「オー、ソレヲ聞カレルト赤面シマス。愛ト言エルノカドウカ・・・一方的ナノデ『ぞっこん』ト言イ直シマショウ」(この青年は、やはり見どころがあると思う)

話を要約すると、彼は女優の黒木華=写真左=が気に入ったのだが「華」を「はる」と読むことを数日前まで知らなかった。かつてベルリンの日本語学校で、「華」は音読みで「カ」もしくは「ケ」、訓読みでは「はな」と読むことを教わった。

それを、なぜ「はる」と読むのか? 彼は何日間も悩みに悩んだのだろう。

「モット分カラナイコトモアリマス。日本デハ「まさる」トイウ名ヲ「虎上」ト表記スルコトモ可能ナノデスカ?」

なんのこっちゃ。(ははあ、元横綱若乃花=写真右=のことか)

「ああ、それはね、相撲を引退してタレントになってから改名したんだよ。本名は花田勝のままなんだが、ま、芸名というか」

「風水占イカ何カノ関係デ変エタノデショウカネ」(なんだ、知ってんじゃねえか)

こういう漢字を書いたらこう読まなきゃならない、という厳密な決まりが実は日本語に全くない。その真相と功罪に、次回以降は迫りたいと思っているのだが・・・ヘルマンの追及に応じ切れる自信は、これまた全くない。

 

 

日本人の姓名は難しい

f:id:yanakaan:20180212225720j:plain f:id:yanakaan:20180212225806j:plain

「グーテンターク、治五郎サン。少シ教エテホシイコトガアリマス」

「なんだろう、ヘルマン」

「ドウシテ『よしはる』ガ『はぶ』デ、『ゆづる』ハ『はにゅう』ナノデスカ?」

「え?」 (ははあ、羽生善治=写真左=と羽生結弦=写真右=のことを言っているのか)

「将棋ト、すけーとデハ、同ジ漢字デモ読ミ方ヲ変エル必然性ガアルノデスカ?」

「いや、そういうわけじゃなくて・・・」

「デハ、一体ドノヨウナ論理ニ立脚シテ姓ノ読ミ方ガ異ナルノデスカ?」

「オー、ソンナコト、治五郎ニモ分カリマセーン」

ヘルマン青年は、ドイツ人であることとは関係ないと思うが妙に理屈っぽいのだ。

しかし彼の疑問ももっともであって、西洋人(というより、ほとんどすべての外国人)にとって、相手の名前を漢字で知っても正しく読めないことがある日本という国は不思議な気がするに違いない。渡部はワタベかワタナベか。茂木はモギかモテギか?

この問題は掘り下げると奥が深く、人名の読みを姓ではなく名にも拡大すると収拾がつかなくなる。いずれ取り組んでみたいが、今夜はヘルマンとの一幕でもう疲れた。

 

 

おかしゅうて やがて悲しき しらけ鳥

f:id:yanakaan:20180211212345j:plain

〽 しらけ鳥 飛んで行く 南の空へ

  しらけないで しらけないで しらけたけれど  (みじめ みじめ~)

40代半ば以下の世代は、もう知らないかもしれない。治五郎が高く評価してきたコメディアン・小松政夫の「しらけ鳥」=写真=。

昔のドリフターズのコント番組を見るともなく見ていたら、彼の懐かしい姿に出合った。「もう死んでたっけ?」と思って検索したら、地味に活躍しているようだ。

彼の生前(いや、まだ元気なんだってば)、新宿の喫茶店で取材したことがある。コメディアンは概して真面目でストイックだと言われるが、この人は典型的だ。終始マジメに応答するので、こっちが笑いをこらえるのに苦労した。

「しらけ鳥」という歌は彼の芸の白眉であって、ワシに言わせれば「バカバカしさの極致が生む笑い」だ。芭蕉の句「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」と、対象や趣は少し違うが通底する! と感じるのはワシだけでしょうか。(多分そうです)

どんな歌なのか? と気になってしようがない若者は、勝手に調べてみて下さい。

 

異常なまでのブランド・アレルギー

f:id:yanakaan:20180210154632j:plain

(ブランド品が好きな方は、気分を害するに決まっているから読まないで下さい)

突拍子もない空想を始めて恐縮だが、もしも治五郎が若くて独身で「集団見合い」(今は合コンとか婚活とか言うらしい)に参加したとしよう。男女とも平均年齢は低くないようだが、容姿端麗と言える女性もいれば、気立ての良さそうな娘もいる。

しかし若き治五郎(言葉に矛盾があるか)の目は、そんなことよりも例えば携えているバッグに行く(窃盗を企んでいるのではないよ)。それが仮にルイ・ヴィトン=写真=であれば、その持ち主への関心は一瞬で消える。(エルメスでもシャネルでも同じ)

「私の大好きな伯父が、そこの革職人でした」という人は問題ない。「子供の頃から、あのデザインが好きで好きでしようがなかった」という人も許そう。

ブランド品の人気というのは、そういうものではない。それを持っている(ことが人の目にとまる)ことによって、あたかも自分までが「高級な人」という印象を与えられるのではないか? という、実に哀れむべき心事に支えられていると思う。

電車の中で隣の人が同じ品を持っていたら、かなり恥ずかしい思いをするに違いないとワシは思うんだが、ブランド・ファンにそんな心配は無用のようだ。「あら、あなたも高級品を身につけないと外出できないタイプなのね」と〝共鳴〟し合うんだろう。

洋服なりバッグなりを買ったのが、イトーヨーカ堂赤札堂キンカ堂かを見抜ける人はいない。(まさか下赤塚の「のとや」じゃないよね)

 ここ数日、中央区立泰明小学校の「アルマーニ制服(約8万円)」問題が話題を呼んでいる。校長先生の好み(というか価値観)はワシと正反対らしいから論争する気もないけれど、某スポーツ紙(日刊スポーツ)によると、女優の石田ひかり(45)がインスタグラムで「これを押し付けられる子どもたちはたまったものではない」と、まっとうな発言をしている。

 芸能人が、まさかブランド品を一つも持っていないということはアルマーニ(いや、あるまいに)、国会での某大臣(麻生太郎氏)の答弁にまで言及している。なかなか立派な芸能人もいるなあ、と感じましたよワシは。できれば、麻生大臣が愛用している黒い帽子にも触れてもらいたかった。(ありゃ一体どういうセンスなんだ?)

 

 

 

「変」と「乱」及び歴史の発展段階

f:id:yanakaan:20180209215427j:plain

治五郎は、こう見えても(どう見えるんだ)大学で日本史を専攻した。よく勉強した方だとは言えないし、東洋史西洋史の知識となれば高校生以下かもしれない。

「~の変」と「~の乱」の違いは何か? てな話題が、ネット上ではよく見られる。大雑把に言うと前者は成功したクーデターで、後者は失敗したクーデターだとする説が優勢を占めているようで、まあ一理あると思う。

近年では大相撲関係で「貴(貴乃花)の乱」、ジャイアンツ関係だと「清武の乱」なんちゅうのがあって、どちらの命名も的外れではないと思う。

歴史の発展段階ということを考えれば、「変」や「乱」は今後いくらでも起きうるのではないだろうか=画像は「安禄山の乱」の中心人物(らしい)=。民主主義どころか多数決というものが分かっていない国も結構、あるようだ。

北朝鮮を名指ししているんじゃありませんよ(してるって)。100~200年遅れて「近代」を迎える国もあるということだ。「キム王朝」とかいう。

内政に干渉する気は毛頭ないが、そろそろ「板門店の変」なんか起きても不思議ではないな。と、平昌五輪の開会式を見ながら思ったことでありました。

「アル中ハイマー」(©山田風太郎)に関する留意事項

f:id:yanakaan:20180208172933j:plain

この言葉、もちろん「アルコール中毒」と「アルツハイマー病」を合体させた造語である。非常に分かりやすい表現で、医師による臨床報告も増加の一途をたどっているので「あ、俺のことだな」と直感する患者が多くなってきた。

治五郎もその一人で、当然のごとく自称として用いたくなるのだが、この言葉に実は著作権者がいる。先日来、ワシが奇書「人間臨終図巻(中)」を再読している作家の故・山田風太郎だ。

伊賀忍法帖」や「魔界転生」など荒唐無稽といえば荒唐無稽、エログロといえばエログロな娯楽小説の大家で、男性には今でも愛読者が多そうだが、ワシは女性ファンに出会ったことがない。(いたら会ってみたいが、少し危険な感じもする)

「戦中派不戦日記」が素晴らしかったし、老境に至って書いたエッセー「あと千回の晩飯」もワシには忘れがたい。「死」というものを忌避せず、素直に向き合っていると思えるのだ。「人間臨終図巻」は、そんな死生観の産物である。

では、彼が名乗った「アル中ハイマー」とは、どういうものか?

深夜というか未明というか、午前2時35分に目が覚めたとしましょう。ちょっとだけ酒が足りなかったと見えて、寝直そうと思っても寝つけない。フラッと起き上がり、推定120メートル先の「100円ローソン」に向かう。

もう飲み直す気はない。ただ、少~し足りないのだ。チューハイが1本あればいい。

人通りのない夜道を120メートル、徘徊する。どうしようもない本能に導かれているだけで、確たる目的意識はない。これが本来の「アル中ハイマー」である。

店に着いた。なんだっけ? あ、チューハイだった。ビールだと問題が解決しないので、いつものチューハイ(税込141円)=写真=を1本。(アルコール度は9%。ロング缶でないと、やはり問題は解決しない)

再び言うが、これが「アル中ハイマー」の正しい姿なのである。

鶴瓶を見るとカニが食いたくなる

f:id:yanakaan:20180207014353j:plain f:id:yanakaan:20180207014447j:plain

一体いかなる理由によるのであろう。笑福亭鶴瓶(「つるべえ」ではなく「つるべ」)師匠=写真左=の顔を見ていると、無性に蟹=写真右は毛蟹=を食いたくなる。

この疑問と真摯に向き合うこと10年余、治五郎は忽然として真理に目覚めた。

頭だ。頭髪の形だ。

ゆで上がった蟹を食べるにはコツがある。(蟹と言ったら毛蟹であって、タラバガニやマツバガニなど物の数ではない。脚? そんなものはどうでもいい。あの堅い甲羅の内側にどうやって肉薄するかが、蟹を食うという行為の神髄である)

ちなみに、蟹は食卓を囲んで大勢の人が一緒に食べてはいけない。みんな黙ってしまうから会話というものが成立しないのだ。(この事実は、ワシの尊崇するショージ先生が「かに道楽」へ行った時の珠玉のエッセーに教えてもらった)

え~、何だっけ。あ、そうだ、鶴瓶師匠の頭の話だった。蟹(毛蟹)を裏返すと、この頭髪と同じ三角形の部分がありますね? あれを右手(左利きの人は左手)で、こじ開ける。すると最短時間で、東洋3大珍味の一つ「カニみそ」に到達できるのです。

あ~、蟹(毛蟹)食いてえ!

 

 

奇書「人間臨終図巻」を読み直す

f:id:yanakaan:20180206153411j:plain

皆さんは、山田風太郎(1922~2001)=写真=という作家を知ってますか? どこかで名前だけは・・・という人が多いのではないでしょうか。いや、それでいいのです。深入りすると少し危なくなるので。(治五郎が、そのクチ)

むかし愛読した「人間臨終図巻」が今は手元にないが、ブラッと寄った尾久図書館で再会したもんだから中巻を借りてきて読んでいる。それにしても変な本だ。

誰が何歳でどうして死んだかを網羅している。治五郎はそろそろ65歳になるので、「六十四歳で死んだ人々」のページから読み直してみる。小林一茶、ペルリ、ブラームス与謝野晶子東条英機三好達治山本周五郎檀一雄・・・。

あ、そうでしたか。で、それが何か? と人は思いがちだが、風太郎が偉いのは各人に対する独特で的確な寸評を付している点。一つでも紹介したいところだが、まだ死後17年じゃ著作権が健在だ。読みたい人は本屋で立ち読みして下さい。

 

一難去ってまた一難?

f:id:yanakaan:20180204201318j:plain

旅先で縁日に遭遇し、寅さんと同じような職業の人に呼び止められたと思いなさい。

「そこのお父さん、あなたには女難の相がある。騙されたと思って、聞くだけは聞いてった方がいいよ」。面白いから足を止めて少し聞いたが、2分後に何かモノを買わされそうになったので手を振って別れた。(これは実話)

【女難】男性が、異性関係で▵受ける災難(トラブルを起こすこと)。「-の相有り」

 あの時、もう少しマジメに話を聞いてりゃ良かったと思わないこともないが、後悔先に立たず。

苦手な「節分」の季節を乗り越えたと思ったら今度は、もっと苦手な「聖バレンタインデー」である。「恵方巻」が一掃された店先に、今は気の利いた各種チョコレート=写真=が溢れ返っている。むかつく。 

ワシも、人間として未熟な時代にはチョコをもらって悪い気はしなかった。多少、鼻の下が伸びていたかもしれない。(ああ、おぞましい)

しかし「義理チョコ」という言葉が普及した頃から、喜びは苦しみに変わった。「おいおい、ワシは先月、糖尿病を宣告されたばかりなんだ。チョコよりは酒(なるべく、醸造酒に比べて多少はカロリーの低い蒸留酒)にしてくれないかな」。それでウイスキー入りのチョコが1、2個増えたが、そういう問題ではないんだなあ。

今やチョコどころか酒を贈られることも完全になくなった。まあ人生、正しい方向に進んでいると自分に言い聞かせるしかないわけである。

苦手な「節分」が終わったよ

f:id:yanakaan:20180204095108j:plain f:id:yanakaan:20180204095154j:plain

(今年も豆まきをしたという人は、聞かなかったふりをして下さい)

治五郎は、幼いころから「豆まき」というものが非常に苦手だった。「福は~内、鬼は~外」という、あの独特の掛け声を聞いただけでゾ~っとする。

大手の神社仏閣が有名人を招いて催す豆まき=写真左=を見ると、撒かれた豆に向かって群衆が殺到する。他人のことなど全く眼中になく、自分が早く豆を拾うことに血眼になる。あの浅ましい姿には、身の毛がよだつ。背筋が凍る。(変ですか? 変かもね)

かてて加えて、近年は「恵方巻」=写真右=という便乗商法が幅を利かせるようになって、スーパー・デパート・コンビニが恵方巻であふれる。面白くない!

節分の行事というものに、どうしてワシは極度の嫌悪感を抱くのか?

原因は「排除の論理」だ。「みんな違って、みんないい」という穏やかな思想の対極に位置する立場なのである。「鬼でも特に悪さを働くのでなければ、その辺にいてもらって別に構わんよ」という懐の深さが感じられない。

「禍福はあざなえる縄のごとし」〔=人生は、わざわいとしあわせとを縄のようにより合わせて出来ているものだというたとえ〕と言うではないか。鬼を排除しちゃいかん。

(はっ、こんな御託を並べている場合ではないのだった。締め切りの迫った雑誌の原稿を早く仕上げないと、編集部が鬼と化してしまう)