「4・10事件」一周年企画③

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不忍通りの動坂下から田端駅方向に少し入ったところに、そのウィークリーマンションはあった。なるべく短時日内に住むべき部屋を見つけなければならないが、普通は即日入居可の物件などない。10日あれば何とかなると考えて契約し、身一つ(いや二つ)で転がり込んだ。

翌日から、近くの不動産屋を訪ね始めたが初日は空振り。2日目にウィークリーマンションの並び2~3軒目の店に入ると、クリタ君という推定30代後半の担当者が応対したのだが、この男が真面目で誠実な性格らしかった。

ワシらを一目見て「これは、何か訳あり夫婦だナ」と見抜いたに違いないが、そんな気配は見せず相談に乗ってくれる。「64歳、無職」では貸し手がないと思い「フリーライター」を名乗った(あながち嘘ではない)が、それでも二つ返事で部屋を見せてくれる大家は少ない(全体の5分の2ぐらいか)。

定年まで勤めた新聞社の名前でも口にすれば〝信用度〟が高まるのだろうが、ワシはそういうことが嫌な性格だ。それを知ってか知らずにか、クリタ君は汗だくで「あ、保証人になってくれる妹さんが大学の先生だそうです」などと、大家を口説くのに必死だ。1日で4つの物件を車で見て回った。

4つ目に見せられたのが、荒川区西尾久の現住居。賃料の割には広い1階の1DKで、日当たりがあまり良くないことを除けば難点はない。「これは、何か訳あり物件かも」と思ったが、贅沢は言っていられない。ここに決めた。

決まりはしたが、必要書類を調えたりするのに時間がかかり結局、動坂下には11日間滞在した。この辺りは谷中時代の行動範囲に含まれるから、懐かしい。「動坂食堂」=写真=のアジフライ定食(+モツ煮)などを久しぶりに味わった。

この店の客は20代と60代超の独り者(♂)が多い。60代の隠居が東京で住まいを見つけることの大変さを、しみじみと実感する治五郎であった。

 

「4・10事件」一周年企画②

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室生犀星「小景異情」の〝予習〟は済みましたか? では、始めましょう。

1年前の「4・10事件」には分かりやすい別名がある。「出ていけ事件」という。その日、4年間ほど同居していた(させてもらっていた)高齢の両親(当時、共に89歳)から突然、その言葉が発せられた。親の年のせいにする気はないし、息子(すなわちワシ)夫婦にも原因の一半はあるに違いない。

しかし、あまりに突然のことではあり、家を出てどうするという当ては全くない。寅さんじゃないが「それを言っちゃオシマイよ」だ。ちなみに「お兄ちゃん、どこへ行くつもり?」と気遣ってくれる妹(さくら)は現場にいなかった。

事の本質は、64歳(当時)にもなって親に「勘当」されたのである。

【勘当】〔法に照らしあわせて罪を定める意〕親・師・主などが目下の者の失敗や悪事をとがめ、その罰として今までの関係が全く無いものとして扱うこと。

どういう「失敗」や「悪事」を働いたのか今ひとつ釈然としないが、覆水盆に返らず。

とりあえず近所のスーパーに通って段ボール箱を集める。トイレットペーパーやティッシュ用の大箱ばかりで心許ないが、11個ほど集まったので衣類や書籍など最小限、必要な物を詰め込んだ。(自分の物ではない布団や食器を持ち出すわけにはいかない)

約1週間後、家を出た。新幹線代を節約して長距離バス(昼)で東京に向かう。ワシ単独だったら「今夜からは橋の下で寝るか」と覚悟するところだが、生活力というものは常に「♂<♀」。ワシにも土地鑑のある北区田端(動坂下付近)のウイークリーマンションを妻が予約してくれていた。

朝に弘前=写真は、近所の名刹「最勝院」=を発って、田端に着いたのは日没後。途中で北上中の「桜前線」と、すれ違った。仙台あたりが満開だった。

その時でありました、ワタクシが忽然として室生犀星の詩境を悟ったのは。

<ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや>

「4・10事件」一周年企画①

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「4・10事件て何ですのん?」と、京都の琴絵は尋ねるかもしれん。(琴絵て誰や)

昨年すなわち2017年の4月10日に、その小事件は起きた。京都ではなく「みちのくの小京都」と言われる弘前での話だ。社会的には何の事件性もない。

学校で誰もが習う詩に室生犀星(1889~1962)の「小景異情」がある。

 先生「この作者は今どこにいると思うかね? はい秀平君」

秀平「都というから東京だと思います」

先生「美智代さんは、どう思う?」

美智代「犀星の故郷は金沢=写真=なので、金沢ではないでしょうか」

先生「治五郎君は、どうだ?」

治五郎「う~ん、分からんとです。金沢と東京の中間じゃなかね?」

一周年企画ともなると、それなりの準備も必要になる。「待てない。さっさと言え!」という読者の気持ちは分かるが、〝予習〟のつもりで<ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの>の続きを読んでおいてほしい。(あす以降のブログを読み解く手掛かりになるでせう)

よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

通訳に罪はなけれど

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日本サッカー協会は9日、ワールドカップ(W杯)ロシア大会(6月開幕)に出場する日本代表のハリルホジッチ監督(65)を解任したと発表した。

 解任は7日付。後任は、西野朗・協会技術委員長(63)。

 記者会見した田嶋幸三会長は「(ハリルホジッチ氏と)選手との信頼関係が薄れてきたことなどを総合的に判断した。(W杯まで)2か月であることを考え、内部で一番(チームを)見てきた西野氏を監督と決定した」と理由を説明した。>(Yomiuri Online より)

田嶋会長でなくても、サッカーファンの多くが気になっていたのは「コミュニケーション」の問題だ。シーズン中は単身赴任で、どこへ行くにも通訳が一緒=写真=。この通訳がまた(ご覧の通り)目立つ風貌なので、治五郎は「この通訳が隣にいない時、ハリルはどう暮らしているんだろう?」と心配でならなかった。

 試合後のインタビューは何年たっても「アリガトウ」「ガンバリマス」+α 程度の日本語で、例えば大阪に行ったら「今日はシンドカッタけど応援、オオキニ」ぐらい言ってもええやん、と大阪人は思ってたんちゃうやろか?

外国からの〝助っ人〟は野球でもサッカーでも、あきれるほど日本語が上達しない。理由は明らかで、通訳がいるから「言葉を覚えなくても生きていける」のだ。ここに「覚えなければ生きていけない」力士との決定的な違いがある。覚悟の差と言ってもいい。

そこで我が身を振り返ると、何年たってもモンゴル語が少しも上達しない。モンゴル人の妻が普通に日本語を話すので、勉強する気にならないのだ。困ったことである。

花粉症とストーカーに関連性はあるか?

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あー、それは全くないと思いますね。(ないなら「あるか」と聞くなよ)

 ただ、共通点ならある。「どちらも迷惑」? いや、それもあろうが、治五郎が言わんとしているのは歴史と風土の問題なのである。

モンゴルに花粉症はない。しかしモンゴル人でも来日して何年かたつと、発症することが多い。ワシは最近も書いたように、この道では先駆者だが、50年以上も前の日本で花粉症は皆無に等しかった。戦前はどうか、大正時代は? 調べたことはないが、夏目漱石や内田百閒の作品に花粉症が出てきたことはない(ように思う)。

<女優の菊池桃子(49)が5日、警視庁愛宕署の一日警察署長を務めた。新橋駅前で行われたイベントに制服姿で登場。イベント終了後に取材に応じ、自身へのストーカー行為をした元タクシー運転手の男が3月31日に逮捕されたことについて「正直言って、怖いのひと言です。逮捕されたからこれで終わりということでもない」と不安を口にした。>(スポニチアネックスより)

桃子さん=写真は30年以上前か=を苦しませるストーカーというものも、彼女が生まれた頃は(いることはいただろうが)社会問題というほどのことではなかった。ワシの考えでは、これは精神的サディズムと呼ぶべき「奇病」であって、常人の理解を超えた症状である。被害者の救済と同時に「なぜ増えたか」の社会病理学的究明が待たれる。

ちなみに治五郎の花粉症だが、その後は薬が効いたのかピタリ(とまではいかないが)治まってしまった。「1 Week 使いきりマスク」(7枚入り)が使いきれない。

が、油断大敵。桃子さん同様「治まったからこれで終わりということでもない」と、不安を口にしているところだ。 

 

 

「軍団」とは何か、「軍」とは何か

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 「治五郎日記は、なんや『新明解国語辞典の読み方』みたいなブログでんな」

「えっ、今ごろ気づいたんか? 最初からそう断っとるやろ。嫌ならやめとき」

「ほな、やめさせてもらいまっさ」

てなわけで、読者数が適正規模まで減ってきたのが実感される今日この頃。こうなると乗ってくるのが治五郎である。

現行憲法下では、日本国は「軍隊」を保持してはいけないことになっている。その代わり「軍団」というものがあって、存在感を示している。古くは石原裕次郎=写真①=の「石原軍団」があり、今は北野武=写真②=の「たけし軍団」が注目を集める。

【軍団】㊀昔、諸国に配置した軍隊。㊁歩兵二個師団以上から成る部隊。軍と師団との中間。㊂すぐれた統率者に率いられ、活発に行動して対抗者から恐れられた軍隊。〔恐れを知らぬかのように活発に行動する集団の意にも用いられる〕

これだこれだ、㊂。〔恐れを知らぬかのように〕という一言が核心をついていて心憎いが、用例は「甲州の武田ー」だけで古めかしい。

 彼(新解さん)は平和主義者らしく、軍というものに対する説明は淡泊だ。

【軍】㊀戦争に備えて組織された武力集団。「-の機密/ー隊・陸ー・海ー・空ー・女性ー〔=チーム〕」㊁戦争。いくさ。

他の語釈がコッテリしているのに比べ、とてもアッサリしている。戦争に関係ない用例としては「女性軍」くらいしかしか眼中にないのだ。

〔=チーム〕という意味の「軍」としては「巨人軍」=写真③=という、特異な例もある。ジャイアンツではなく「(株)読売巨人軍」が会社の正式名称。決して「戦争に備えて組織された武力集団」ではないと思うのだが。

 

「生きざま」と「死にざま」

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治五郎は長いこと「生きざま」という言葉に抵抗があった。「死にざま」には何の抵抗も感じないのだが。=写真は、武蔵と小次郎の生死を分けた巌流島の決闘=

 思うに、ワシのように感じる向きが以前は多数派だったが、次第に減って「生きざま」が幅を利かせるようになると、相対的に守旧派=うるさ型の声が強まった。ところが今日、それが誤りだったことを教えられた。新解さんという人(いや辞書)のお陰だ。

【生きざま】その人の、人間性をまざまざと示した生活態度。〔「ざま」は、「さま」の連濁現象によるもので、元来濁音の「ざまを見ろ」の「ざま」とは意味が違い、悪い寓意は全く無い〕

【死に様】その人の▵死んだ時の様子(死を迎える態度)。〔この語自体には、善悪の評価は全く無い。善悪の観点が分かれるとしたら、その人が大往生したか醜い死に方をしたかの相違が有るだけである。〕「ふた目と見られないー」

どうだろう、頑固な老人を懇々と諭すような、辛抱強い説得だと言えまいか。

【懇懇】ものの道理などを、相手のためを思って、心底から説いて聞かせる様子。「-と諭す」

小次郎いや治五郎、敗れたり!

ワシも明日からは(長くないにしても)正しい生きざまを目指そうと存じます。

日本文化における「女人禁制」の問題

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大相撲関係者にとって、また大きな事件が勃発した。治五郎親方の所見によると、今回のは力士の暴力沙汰などより根が深く、5日以降はマスコミの大騒ぎが予想される。 

京都府舞鶴市で4日に行われた大相撲の春巡業で、あいさつ中に倒れた多々見良三・舞鶴市長(67)の応急処置のため土俵に上がった女性に対し、土俵から下りるよう求める場内アナウンスが流されたことがわかった。>(Yomiuri Online より)

神聖な土俵=写真=に、女性が上がってしまったのである。なぜ女性が上がってはいけないかというと・・・以下はワシの意見ではなく、そういう社会通念が現代日本でまかり通っているという困った事実を指摘するだけである(念のため)。

女性は不浄なのだそうだ。生理があるから云々という理由が不当な性差別であることは万人が承知している。第一、女に生理がなかったら人類はとっくに滅亡している。

しかし、男女同権の世になっても「女人禁制」は無くならない。〝神域〟とされる山などでは徐々に解禁が進められてきたが、最後まで残った場所が「土俵」だと言えよう。引退した力士の断髪式なんかでも、奥さんや娘さんは土俵に上がれない。なぜか。不浄だから。(んなバカな!)

これまでも物議をかもしたことは何度かあったが、土俵に上がりたい(?)女性は「古来の伝統」を理由に排除され続けて今日に至る。

ところが今回は「応急処置」という特殊事情、いわば「待ったなし」の状況下で事件が起きた。これは社会性が極めて高い。先進国・日本の恥ずべき蛮習はネットで瞬時に世界を駆け巡り、ニューヨークタイムズワシントンポストあたりが「Why?」という論陣を張るのではないだろうか。

ワシのような者からすれば「どうかひとつ穏便に」という気持ちと「徹底的にやれ!」という思いが相半ばする。「女性は土俵から下りて下さい」とアナウンスしたのは場内放送を担当する若手行司の誰かに違いないが、もつれた勝負を判定する行司さながら、ワシもどっちに軍配を上げればいいのか大いに悩むのである。

 

「かさ」をめぐる考察

 

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野球中継などで「カサにかかった攻撃」という局面が生じる場合がある。

 AチームとBチームは実力が伯仲しているのだが、何かの弾みでAチームに流れが来ると連打が飛び出し、盗塁などもうまくいく。逆にBチームは、大事なところで暴投やエラーが飛び出す。Aチームの攻撃は「カサにかかり」、たちまち大差がつく。

こういう展開に出合うと、治五郎は不愉快になる。それまでAチームを応援していたくせに、チャンネルを替えてしまう。我ながら性格が歪んでいると思う。

「笠」=写真左=と「傘」=写真右=の違いを、新解さんはキチンと説明している。

【笠】に関しては【ーに着る】自分に有力な後ろ盾が有るのをいいことにして、大きな態度をとる。【傘】の用例としては「米国の核のー〔核兵器の威力による安全保障〕の下にある」を挙げている。どちらもワシの憎むところである。

では「カサにかかる」のカサは、笠か傘か? これが、どっちでもないのですね。

【嵩】(見た目の)物の量やその大きさ。【ーにかかる】㊀優勢に乗じて攻撃に出る。㊁頭から抑えつけるような態度をとる。

甲子園では20分後にセンバツの決勝戦智辯和歌山大阪桐蔭)が始まるところ。どちらか一方が嵩にかかったりしなければ、ワシとしてはどっちが勝っても文句はない。

 

誤解を招くなら言わなきゃいいんだが

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左から(いずれも俳優の)①堺雅人小日向文世竹中直人(若い頃)である。

誤解を招かないように言っておかなければならないが、治五郎は3人とも全~然、嫌いではない。むしろ俳優としての演技力は高く評価していて、映画やドラマで活躍している様子を(どちらかと言えば)好意的な目で温かく見守っているつもりだ。

しかし、①と②について言えば――ああ、言いたくないなあ。どうせ誤解を招くに決まってるんだから。(じゃ言わなきゃいいだろう!)

でも、やっぱり言っちゃいますね。

ワシは①と②が、(あくまでも役柄上の話ですよ)得意とする「表情」をとても苦手に感じることがある。目や口元は笑ったまま、相手にシビアというか辛辣な言葉を浴びせられる能力、とでも言おうか。もしも身近で実際にこんな表情を見せる人物がいたら、ワシはなるべく近寄りたくない。〝恐ろしい笑顔〟だ。

「目は口ほどにものを言う」な~んて言うけれども、目や口元だけを見ていたら人間の本心は伺い知れない、ということを①と②の演技は伝えたいのかもしれない。(やっぱり誤解されそうだな。やめときゃよかった)

ところで③だが、この人のことはデビュー当時から高く高く買っていた。「笑いながら怒る人」という前代未聞のギャグには、感心を通り越して感動した覚えがある。(タモリの「四か国語マージャン」などもそうだが、才能ある芸人が初めてテレビに出演した頃に見せた芸というものは、時代を超えた生命力を感じさせる)

笑いながら何かを言ったりしたりすることは難しいうえに、ワシのように「苦手」感を抱く人もいる。俳優の演技なら問題ないが、家族間や友人間でこういう表情を見せることは慎んだ方がいいでしょう。(やっぱり誤解されるんだよ、どうせ)