世の中に絶えてコンビニのなかりせば・・・

f:id:yanakaan:20181105173231j:plain f:id:yanakaan:20181105173302j:plain

・・・ 人の暮らしは不便ならまし

もちろん、原作は<世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし>だ。確か古今和歌集にある、確か在原業平の歌である。(間違ってないかな?)

桜という花さえなかったら、人の心は(きょう咲くか、あす散るかと気にしなくていいので)のどかなんだがなあ。というような意味だろう。

日本全国津々浦々、個人経営の商店がどんどん消えてコンビニだらけになった。(面白くない!)と感じているのは治五郎だけではないはずだが、コンビニの隆盛は〝国民の総意〟に基づくものと言える。24時間、開いている店があるという便利さに慣れると、もう後戻りは出来なくなるのが人間というものだろう。

夜中に「あ、マヨネーズが切れてた」「ちょっと唐揚げでも食いたいな」という時、現代人は近所にコンビニがないと「もうダメ」なのだ。生死に関わるのだ。(それほどの問題ではないような気もするが)

家から歩1分以内の「セブンイレブン」が、先月中旬からリニューアル工事をしていて閉店中。非常に不便だ。

深夜にブログを書いていてタバコが切れると、往復600~700メートルのファミリーマートまで歩いて行って来なければならない。(タバコをやめれば済む話なのでは? という鋭い意見にも一理あるが、そういう耳の痛い話題はまた今度ね)

改装をほとんど終えたセブンイレブンは、あさって7日の朝から営業を再開する由。心中、ホッとしながら「ダメになってゆく私」を自覚する治五郎老人なのである。

忘れかけていた言葉「健忘症」

f:id:yanakaan:20181104035304j:plain

11歳ほど年下の妹が、某大学で脳神経内科医をしている。先月も「気になる もの忘れ」と題する公開講座の講師を務めたそうだ。

昨夜、治五郎庵に遊びに来た際、その時のレジュメを使って治五郎夫婦に「もの忘れ」の本質及び傾向と対策を講義してくれた。妹よりさらに11歳下の妻も、最近は「人の名前が出てこない」「ものの置いてある場所を忘れる」「何をしに来たか忘れる」「ものの名前が出てこず『あれ』と言うことが増えた」等々の現象に見舞われるケースがあるから、パソコン画面を見ながら受講する表情は真剣にならざるを得ない。

ニューロンニューロンの結合がどうしたとかいう脳の仕組み=写真は頭部MRI=になると、根っからの文系である治五郎の脳はついていけない。今は理解したつもりでも明日になれば、必ず忘れるであろうことは自信を持って断言できるのだ。(エヘン)

えへん 〔いばったり得意になっている時、また、人の注意を引く時などに〕せきばらいのまねをして出す声。

 妹の講義を聞いてワシが最も感心したことは、医療の世界では「健忘」という言葉が今も健在だったという一事に尽きる。「すこやかに忘れる」だよ。罹患者に対して、なんという優しさと思いやりに満ちた表現だろう!

痴呆症という言葉は人の尊厳を傷つけるから、とりあえず何か別の呼称を見つけなければならない、などという料簡の狭さがない。

「おや、初診の方ですね。どうしました?」

Aさん(暗く)「家族みんなから認知症だと言われまして」

Bさん(明るく)「健忘症になりましたあ!」

どっちが幸せだろう。

赤瀬川原平(1937~2014)という作家は、わが「新解さん」を世に出した最大の功労者だが、彼の真価が発揮されたのは名著「老人力」(1998年刊)だと思う。

当時は30代だったと思われる女医が、この本を読んだか読まなかったか。神経内科に携わる者にとって、これは大事な一つの岐路である。確か読んでいたのを兄は「記憶」しているので、彼女の診断には信用を置くことにしている。

「美しい日本の私」と「うるさい日本の私」

f:id:yanakaan:20181103024904j:plain f:id:yanakaan:20181103024949j:plain

「美しい日本の私」というのは、川端康成が1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した際、スウェーデン・アカデミーで行った記念講演の題名だ。高校生だった治五郎が読んでも「なるほど」と納得できる日本文化論だった(と記憶する)。

しかし中には、このタイトルを揶揄する向きもあったようだ。「美しい」は「日本」に掛かるのか「私」に掛かるのか? まさか川端が容姿に自信があったとも思えないが、深読みすれば「美しい国に生まれ育ったからこそ、私は日本人屈指の名作が書けた」という自慢に見えないこともない。

日本語の形容詞がどの名詞・代名詞を修飾しているのか、なかなか一筋縄ではいかないものだ、ということを考えさせられた。二番目の同賞受賞者となった大江健三郎の演題は「あいまいな日本の私」。これが川端を大いに意識したものだったのか、あまり意識していなかったのか。調べればすぐ分かることだが、面倒だから調べていない。

今から20年ほど前に、哲学者の中島義道(1946~)が「うるさい日本の私」という本を書いた。この人は「闘う哲学者」と呼ばれるだけあって、虚偽と欺瞞に満ちた実社会に真っ向から喧嘩を売るようなところがある。同じころに出版された「人生を〈半分〉降りる」などは、治五郎の後半生に多大な影響を及ぼした。

「うるさい日本の私」の場合、「うるさい」が「日本」と「私」の両方に掛かっていることは明らかだ。本人の意思なのか編集者の知恵なのか、絶妙なタイトルである。

まず、彼の批判(というか罵倒)の対象は現代日本の「音漬け社会」(というか「騒音地獄」)である。家電量販店を始め駅構内や電車内の放送(の頻度と音量)が、尋常ではない。狂気の沙汰と言っても過言ではないだろう。

しかも彼は、当ブログのように不満をウジウジ並べるのではなく、騒音の発生源(というか当事者)のところへ足を運んで、改善されるまで何度でも抗議する。見事(というか異常)なほどのクレーマーなのだ。つまり「私」も相当に「うるさい」存在。

形容詞がどの体言に掛かるかという、日本語の「あいまいさ」を逆手に取った「快作」というか「怪作」の名に値する一冊であった。

お爺さんの知恵袋

f:id:yanakaan:20181101224617j:plain f:id:yanakaan:20181101224506j:plain

 <瓜に爪あり、爪に爪なし>

瓜(うり)=写真①=の漢字をよく見ると、爪(つめ)より一画多い。ちょうど爪のようにみえる「ヽ」が付いているのだ。これを昔の人(戦前世代)は<瓜に爪あり、爪に爪なし>と覚えた。一度覚えると、読み(書き)間違える心配はない。

戦後に生まれた治五郎のような若者(⁈)も、学校で教わったのか親に聞いたのか忘れたが、その恩恵を受けて育った。ボケてきても瓜と爪を混同することはない。

<西向く侍、小なり>というのもある。野球の「侍ジャパン」=②=は欧米(西)を強く意識しているようだが、まだまだ体が小さい。という意味だ。(ウソです)

2・4・6・9・11月には「31日」がないという、これも昔の人が語呂で教えている。2~9で<西向く>は分かるが、11がなぜ<侍>かと言えば「十」+「一」=「士」だからだ。今の学校でも、この程度のことは教えているのだろうが。

なんでこんな話になったかと言うに「ああ、今年も11月に入ったか。あと2か月で来年だ。また馬齢を一つ重ねるのう」という感慨からだが、その11月も気がつけば二日目。一日目に何をしていたのか、そろそろ思い出せなくなりる。手で文字を書いたり、頭で暗算する機会がなくなっても、むか~し身につけた〝知恵袋〟が今でもカラッポにならないのは、不思議なことよのう。

それにしても、かつては〝昭和のメロン〟だった瓜(特にマクワウリ)をスーパーや八百屋の店頭であまり見かけなくなったような気がする。たまには食いたいナ。

モンゴル人力士と代理人弁護士

f:id:yanakaan:20181030213039j:plain f:id:yanakaan:20181030213115j:plain

角界を揺るがした〝鳥取の夜〟事件が1年を過ぎて、また新しい展開を見せている。2400万円余を支払えという民事訴訟を、提訴した被害者である貴ノ岩(側)が急に取り下げたのだ。「治療費を含め、全額を自分が負担してもいい」とさえ言う。テレビでは「相撲の専門家」たちが、いろんな意見を述べている。

かつて小結まで行った祖国の〝名士〟バトバヤル(旭鷲山)の発言を除けば、どのコメンテーターの意見にも頓珍漢なところがある。「どこか上の方から圧力がかかっているに違いない」などと、いかにも現代日本人の発想しがちなことだ。

そういう話ではないんだよ。

貴ノ岩(本名バーサンドルジ)が訴訟を起こしたのは、本心からではない。が、取り下げたのは本心からである。これをよく理解しているのは、一方の当事者である元横綱日馬富士なのではないかと思う。

バーサンドルジという少年は8歳だかで母親と死別し、父親にも死なれた後は長兄に養われた。「実兄だけが頼りだった」という境遇を、今の日本人は誰も知らない。

さてバーサン問題を、どう考えるか。ワシは決して暴力を肯定する者ではないが、ことの次第は以下のようなものだったと推測する。

日馬富士「昨夜はチト怒りすぎたようだ。悪かったな」

貴ノ岩「何でもないっす。殴られたお陰で、俺も少し反省しました」

モンゴル人同士であれば、これで済んだのだ。酔って喧嘩になるのは当たり前のことであって、同席した白鵬以下が黙っていたのも当然だ。ところが、一部スポーツ紙が報じたもんだから日本では「大事件」になり、話がこじれ続けてきた。

「日本国は法律に支配されているんだから、以後は弁護士さんに任せなさい。マスコミに直接、対応することはまかりならん」。何かの圧力が働いたとすれば、この時点だ。

両力士が本当はどう感じているのか? 「大げさなことになっちゃったなあ」だろう。

彼らは「何も言えません。代理人弁護士から聞いて下さい」と言うしかなくなった。

【代理】その人に代わって事件・事務などを処理すること。また、その人。

 あの事件に関して、当事者が人前で何かを語るということは一切、なくなった。出てくるのは代理人弁護士だけであり、彼らは「モンゴル」を知らなすぎる。

 貴ノ岩の兄や弟たちが現在、モンゴルで遭っているというバッシングの実態は日本人には分かるまい。話がややこしくなるだけなので、代理人弁護士はなるべく出てこないで下さい。(もう手遅れだが)

ハロウィンに反発する〝縄文の血〟

f:id:yanakaan:20181030013837j:plain f:id:yanakaan:20181030013906j:plain

治五郎はバカかもしれないが、バカ騒ぎは嫌いだ。大っ嫌いだ。

近年、この季節に渋谷で繰り広げられる若者のバカ騒ぎが社会問題になっているようだけれども、現象そのものは別に目新しいものではない。暴れるのが若者である。

ワシより少し上の「団塊の世代」は、今でこそ「愛されるお爺ちゃん」や「生きてるだけの寝たきり老人」になっているが、昔は大学構内や国会周辺でずいぶん暴れ回ったらしい。(彼らの多くは、当時の話になると2階に逃げたりトイレに隠れたりする)

かつて「政治」に夢中になった20代の若者が、現在はSNSやアニメ、ゲーム、アイドルの握手会などに情熱を傾けている。有り余るエネルギーは、どこかで発散しないと体に悪いから、たまには外に出て暴れた方がいいのかもしれない。

しかし渋谷のバカ騒ぎを(TVなどで)見ていると、本能的な嫌悪しか感じられなくなっている自分に気づかされる。「仮装が楽しい」という心事が、まず理解できない。

ハロウィン=写真①はカボチャをくりぬいた「ジャック・オー・ランタン」=というのは本来、アイルランドなどで行われた古代ケルト民族の習俗だそうで、日本で言うと盆と正月を一緒にしたような信仰心が源だという。縄文人=写真②は青森県出土の「合掌土偶」=に共通するものがある。

それがアメリカに渡ってキリスト教的な脚色を施されてから、おかしなことになる。変なものが20世紀後半、日本にやって来たからますます変なことになった。日本人全体の幼児化に製菓会社や東京ディズニーランドの企みが加わると、いよいよ変になる。

「シブヤに行けば非日常を体験できるらしい」という噂が拡散して、田舎の若者ばかりか世界中の賢明ならざる若者が集まってくる。そう不思議なことではない。

これは、しかし若者に限らないのであって、ワシなどは幕末に大流行したという「ええじゃないか」騒動を連想する。日本人には、長続きはしないに決まっているが一時的なブームに踊らされる習性があるのではないだろうか。

「人が群がる場所には行かない」という、ワシの幼時からの直観は正しかったと思う。(そこの爺さん! 面白がって、きょう明日は渋谷へなんか行くんじゃないよ。踏み潰されても「自己責任」だから、同情する人はいないよ)

 

 

他人事として見るわけにいかないドラマ(その2)

f:id:yanakaan:20181028022309j:plain

昨日の続き? 何の話だっけ。

 あ、少し思い出してきたぞ。金曜夜のTBSドラマ「大恋愛~僕を忘れる君と」=写真=のことかな? 大石静の脚本だというから、初回から見ている。

徐々に記憶が消えていく、アルツハイマー病によるMCI(軽度認知障害)になった女医と、彼女を愛してしまった男(売れない作家)との切ない物語である。

「忘却」というものと正面から向き合うフィクションとしては、ワシがかつて感涙にむせんだ小説「アルジャーノンに花束を」に通じるものがある。

【忘却】以前に何か▵した(あった)ことや、近い将来すべきことをすっかり忘れること。「―の彼方にある〔=すっかり忘れている〕 / ショックで前後をーした」

ほほう、この女医役は戸田恵梨香というのか(その母親役が草刈民代なんだが、一緒に英国へ行った記憶が治五郎の脳からは消えかかっている)。相手役はムロツヨシ? あまりパッとしない「お笑い芸人」かと思っていたが、なかなかの芝居をするのう。

次の週、続きを見ると同じ迷路が待っている。「この女優は何という人だっけ」「隣の男は、初めて見たような気がするが結構な役者じゃのう」

治五郎がMCIの大先輩であることに、疑いを挟む人はいないだろう。会社のエレベーターや、飲んで帰るタクシーの中で「この人の名前は?」と思い出せなかった経験は数えきれない。何年か前に読んだのを忘れて、また同じ本を買うようなことも40歳前後から頻繁にあった。以来、もう四半世紀だぜ!(威張るな)

発症の時期が早かった割に、進行のスピードが著しく緩やかなケースと言えるのではないだろうか。この患者の〝自己診断〟に、何か問題はありますか? 先生。

 

他人事として見るわけにいかないドラマ(その1)

f:id:yanakaan:20181027171630j:plain f:id:yanakaan:20181027171705j:plain

ん~っと、名前は何だったかな、この女優。ク・・・草・・・草刈・・・元バレリーナなんだよ。あ、草刈民代=写真①=だ。草刈正雄=写真②=の奥さん。(違うだろう)

「おい治五郎(ではなく本名)クン、最近は別に忙しくないだろう。草刈民代と一緒にイギリスへ行ってくれないか」「えっ? 何ですか藪から棒に」

(民代という名前がいいやね。なんだか昭和時代の香りがプンプンする。しかし、ワシにとってバレエほど縁遠いものはない)

日本で「英国祭98」が開かれた年だから、ちょうど20年ぐらい前の話だろう。正月の別刷り特集で「イギリスと日本」がテーマになり、暇そうな文化部記者にお鉢が回ってきたと思いねえ。記憶ではなく記録によると、97年の晩秋のことだ。

カメラマンを含めて3人、同じ飛行機に乗った。マネージャーは同行しないのかと首を捻ったが、ロンドンで周防正行さんと合流した。映画「Shall we ダンス?」が縁で、主演の民代さんと結婚した監督だ。

〝新婚さん〟の邪魔にならないよう気を遣ったこと以外、イギリスでの思い出は(残念ながら)ほとんど何もない。(あっても覚えてない)

民代さんはバレエ引退後も女優として活躍しており、最近ではTBSのドラマで女性主人公の母親役を好演している。このドラマが実に問題でしてなぁ。

冒頭に書いた「ん~っと、この女優の名前は・・・」という、ワシのように物忘れの激しい視聴者にとっては毎週毎週、痛いところを突いてくるサディスティックなまでの物語なのだ。(続きは明日)

 

 

「超」のつく門外漢が知りたい指揮者の世界

f:id:yanakaan:20181027010109j:plain

まず伺いたいのですが、どうすれば指揮者という職業に就けるのでしょうか?

幼時に音楽の世界に入って天分を発見され、苦労と挫折を繰り返しながら一段一段、上に進んでいくというのであれば、分かりやすい。歌手や相撲取りも同じだろう。

しかし、指揮者という世界は別格なんだな。高齢の小澤征爾=写真=が次回公演に出られないとなれば新聞に載る。回復して出るとなれば、それもニュースだ。が・・・

 例えばだよ。第二バイオリン奏者が、家を出がけに奥さんと食事のことで口論になり、むかついている。あるいは打楽器奏者が腹を下していて、シンバルを思い切り打ち鳴らすことができない。そんな事情までも指揮者は把握し、対処するのだろうか?

ド素人の目からすると、名指揮者は感情に任せて無闇に腕を振り回しているように見える。「さすがはカラヤンだ」「フルトヴェングラーだ」「オザワだ」と、どうして聴き分けられるのか? そこんところが、さっぱり分からんのですよワシは。

ベートーベンでもチャイコフスキーでもいいが、彼らが楽譜によって表現した〝音楽思想〟とでも呼ぶべきものを、名指揮者は完全に理解しているのだろう。

今はチャイコフスキーの五番をウットリしながら聴いている治五郎だが、誰が指揮しているのかは見当もつかない。どなたか隣に来て教えて下さい。

どうも、やっぱり〝人身売買〟に見えていかん

f:id:yanakaan:20181026013858p:plain f:id:yanakaan:20181026014028j:plain

「ほう、大阪桐蔭の根尾は中日が獲ったか」「金足農の吉田は秋田からさらに北上して日本ハムへ行くのか」「巨人は監督が代わっても、あまり幸先が良くないな」

プロ野球に関して、治五郎は「かなり熱心なファン」を自認しているが、ドラフト会議のように世間の耳目が集まる折には無関心でいられず、つい見てしまう。

昔は「Aチーム以外だったら行かない」とか「Bチームだけは嫌だ」とか、わがままを言ってゴネる選手がいて、それなりに同情や共感を得たものだ。今は「いい子」が増えたのか、交渉権を得たチームに不快・不満な表情を見せる選手はいないようだ。

ワシが昔から不快・不満を感じてきたのは、プロ野球の新人獲得が一にも二にもカネに支配されていること。各チームのスカウトは、競馬場=写真右=のパドックで馬を品定めする客と同じ目をしている。「こいつに賭けたら損するか、得するか」だ。

もっと言えば大昔、古代中国や近代欧米で、市場に出た奴隷の体や力を見て「こいつは働ける」と判断して〝高値〟をつけた人々の気持ちと同じだ。

親の欲も絡む。ウマくいけば明日から、勉強より野球に明け暮れていた息子が何億も稼いでくれるのだ。

人は馬ではないのだから投機の対象にすべきではない(馬でも)と思うんだが、疑問を呈する人は多くないようだ。

根尾君も吉田君も、ワシなんかの誹謗中傷にめげず頑張ってね。