梅雨と横綱に関する雑感

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 結論を先に言えば「これでいいのだ!」となる。

雨の季節には雨が降らなければならない。ムシムシ、ジトジト、洗濯物を干せない日が何週間も続く。うっとうしい「梅雨」が、今年は久しぶりに戻ってきた。

大相撲名古屋場所では、二人の横綱白鵬鶴竜)が全勝を続けている。面白くない!が仕方ない。4大関が全滅状態だ。去年から今年にかけて、いろんな力士が初優勝を遂げて脚光を浴びたが、な~に白鵬がケガで休場した時だけじゃないか。

誰からも憎まれるほど強いのが横綱だ。昔の大鵬を知る少年は「あ、また圧勝しやがって、あの野郎!」と憎んだものだが、いま思うと、それが横綱というものなのだ。

梅雨の季節に雨が降り続く。横綱が、他を圧倒して勝ち続ける。これでいいのではないだろうか。(と書いたところで、昨日は白鵬逸ノ城に完敗を喫した。まあいいや。これで今場所の優勝の行方が少しは面白くなるだろう)

ちなみに、白鵬日本国籍を取得したらしい。遠からず、日本の国技は白鵬親方(いずれは日本相撲協会理事長)が統率することになるだろう。もう何も申しません。

どうでもいいけど、梅雨どきに降る雨の音がモンゴル人の耳にはどう聞こえるか?

辞書を引くと「cap cap(サルサル)」「шиp шиp(シルシル)」と載っていて、義妹に教えを乞うたら前者が「ザーザー」、後者が「シトシト」に近いようだ。かの国もまた豊かな擬音語の世界を持っているのだ。

蒙古女の感性と言っていいのかどうか

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たぶん、そう一般化して言うことはできないと思うのだが、妻のアルタンを観察するともなく観察していると、独特の嗜好があるようだ。大衆的な歌手で言うと美空ひばり=写真左=とテレサ・テン=同右=が圧倒的な「双璧」であって、「この二人に比べたら他の歌手は聴くに値しない」とまで思っている節がある。

二人とも「天才」であることには異論のない治五郎も、それほどまでの思い入れはなかったのだが、「これほど人の心に届く歌声を私は知らない!」などと言われれば「確かに、そうかもしれない」と思えてくるから困ったものだ。

今は相撲中継があるからいいが、普段の土曜日は見たいテレビが何もない。BSテレ東が何年も前から繰り返し繰り返し、全作品を放送してきた「寅さんシリーズ」ぐらいのもので、昨夜も竹下景子三船敏郎が出る「知床慕情」編を見たのだが、寅さん映画はアルタンに限らずモンゴル人に評判がいい。

アルタンの場合は〝寅キチ〟のワシの影響があるだろうが、もともと「1に黒沢明、2に小津安二郎」というくらいで、同世代の女性の好みとは少~しズレがある。ワシなどは、自分の親の世代とお茶を飲みながら見ているような錯覚に陥る。

昨夜は寅さん終了後、番組欄に彼女が大喜びしそうなタイトルがあった。いわく<二大歌姫伝説! ㊙映像テレサ・テン……憧れの美空ひばりへ熱き想い>と来たもんだ。これは、付き合わないわけにいくまい。

途中から見始めた義妹バルジンも結構、熱中している。「蒙古女の感性」と一般化したくなるのも当然というものだろう。 

 「コマーシャルが多くて長い! まるでCMの合間、合間に放送しているみたい」と蒙古女たちは憤る。これは全く同感だ。

何のCMかという具体的なことは言わないが、青汁とかセサミンとか(言ってるじゃないか)、健康と長寿を信仰する高齢者の欲望に付け込んでいる。視力・聴力関係も目立つな。しかも「30分以内に電話すれば・・・」などと射幸心をあおる。あくどい!

CMが始まるとワシは「消音」ボタンを押すことにしている。

生まれたのが社会主義時代で、国営だか党営だかの放送ばかり見て育った蒙古姉妹も、今は日本のテレビを批判的に見る。とてもいいことだ。(某国政府は介入しないでね)

それにしても、ひばり52歳、テレサ42歳という享年を知るにつけ「短命が、人々に長く愛されるための条件なのかもね」と、妙な感慨に浸るワタクシたちであった。

重い荷物を女に運ばせて平然としている老人

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 みそ、しょうゆ、みりん、料理酒(いずれも徳用の大型ペットボトル)。こういう生活必需品が、無くなる時は一度に無くなるものだ。また、そういう時に限って他の調味料やティッシュ、トイレットペーパーなども底を突く。不思議な現象である。

よんどころない事情で治五郎が現在地に居を定めて以来、何度も経験してきた。

家から100メートル足らずの距離に隅田川=写真左=が流れている。小台橋=同=を渡って荒川区から足立区に入れば、普通に歩ける人なら10分足らずで大型のホームセンター&スーパー=写真右=に着ける。

一品当たりの単価は僅差でも、まとめて買えば隣近所よりはだいぶ安いそうで、妻アルタンは4~5週に一度は買い出しに行く。ワシも同行したことはあるのだが、往復に余計な時間がかかるうえ、あまり荷物運びの役には立たない(つまり、足手まといになるだけ)ということが判明して久しいので、最近はアルタンが一人で行くようになっている。夫としては少なからず心苦しいのだが、如何ともしがたい。

ところが先週の土曜日以来、モンゴルから義妹のバルジンが来日中だ。当ブログ読者なら知っての通り、あの国は6~8月と夏休みが長いので昨夏同様、バルジンはアルバイトと勉強(&観光)を兼ねて姉夫婦の陋屋に滞在している。

ろうおく【陋屋】狭くてむさくるしい家。〔自分の家の謙称としても用いられる〕

「今日は木曜でバイトが休みだから、一緒に買い物に行ってくるね」「ああ、行っといで。ご苦労さま」。治五郎は、いい気なもんである。(だからジゴローなのだが)

2時間半後に二人の女が重い荷物を両手に抱えて帰ってきた。「ただいま」「お~、お疲れさま」。いい気なもんなのである。

しかし、タイトルにある「平然」は本当なのかどうか。心ある読者には、行間を読むというか、もっと深く詮索し吟味していただきたい気もする。

「転ばぬ先の」と来れば「杖」と続くのが常識だろう。しかし!

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日本の高齢者にとっては、外を歩いていて転ぶ以前に転ぶ可能性の高い場所がある。

風呂場である。ツルッ、ガツン、ドサッ、ピーポーピーポーという事態。

日ごろ「一寸先は闇」と肝に銘じている治五郎に覚悟は出来ているつもりだけれども、人に迷惑をかけることになる。迷惑を受ける立場にある配偶者が、いつのまにかホームセンターで上の写真みたいな物を買ってきていた。

「何だこれは? マットの裏にタコの吸盤みたいなものが、いっぱい付いてるな。なんだか急に酢ダコでも食いたくなった」

聞けば「浴槽すべり止めマット」というものだと言う。 狭いユニットバスの湯舟の底に敷いて、出入りする際に手をつく部分にも小型のを置いてみた。

 なるほど、これだと滑りにくく、転ぶ危険性が激減するだろう。心強い。

ころぶ【転ぶ】㊀何かにつまずいたり 突かれたりして からだの安定を失い倒れる。「すべってー / 転ばぬ先の杖〔=何事でも用心するに越した事が無いというたとえ〕(以下略)」

さすがに新解さんは、「転ぶ」の用例として「すべって」を「杖」よりも優先させていた。形式・様式ではなく実用本位という辞書の姿勢が伺えて、これまた心強い。

しかし、滑って転ぶ危険が減ったワシは、そろそろ杖が必需品になるだろう。街で杖をついている先輩諸氏を見かけると、つい、その品定めをしてしまうのであった。

大相撲七月場所の初日に両国へ足を運ぶ

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ははあ、相撲好きの治五郎のことだから、目的は国技館=写真=に違いない。と思った人はブブー、残念でした。七月場所は名古屋と決まってるじゃありませんか。雨の日曜の昼下がり、両国界隈は閑散としていた。フェイントに引っかかっちゃいけません。

 目的はといえば、畏友のギタリスト原荘介(79)のミニコンサート。「原荘介ふたりの会」といって、今回はハーモニカの老大家・斎藤寿孝さんとの共演だ。

定員50~60人の小ホールには「老人力」がみなぎっている。ワシ(66)でも平均年齢よりは下だろう。主演の二人は、ときどき「この曲の歌いだしはどういうんだっけ」「プログラムを持ってないんだけど、次の曲は?」と客に問い掛ける。客の方も慣れたもので、少しぐらい音程が狂ったり、とちったりしても動じる者はいない。

最後は「みんなも一緒に歌って」というので、昔の「うたごえ喫茶」か特養老人ホームの「おやつタイム」のごとき様相を呈した。

原さんから聞いてはいたが、葬送と死生観の研究家・小谷みどりちゃんも来場していたので、10人ほどで行われた居酒屋での打ち上げにも一緒に参加した。彼女も今や「アラフィフ」(50歳前後)だそうだ。

最近、勤め先の第一生命経済研究所を辞めてフリーになり、相変わらずマスコミで多忙を極める身なのに、あろうことかカンボジアでパン屋(コッペパン専門)を始めたという。いったい何を考えているのであろうか。

その件や、ハゲを疎んじる日本人の歪んだ精神文化などについて、原老師ともども耳を傾けた。

電車のホームで皆さんと別れた後、どこの駅で降りてタクシーを拾ったやら記憶にない。徘徊防止を思えば危険な行為なのだが、無事に帰ったようだ。

面白いが、見方によっては残酷な倉本ドラマ

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 何週間か前にも話題にしたような気がするが、テレ朝の昼ドラ「やすらぎの刻 ~道」に案の定、治五郎はハマってきた。かつての大物芸能人が入居する高級老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に、心身の衰えを自覚せざるをえない彼らの実感に肉薄している。

若い頃から豪邸に住み続けた大金持ちの行く末に、ワシら貧乏人は何の共感も覚えないはずなのだが、出演者が出演者なので老視聴者は、つい「オッ」となる。

最近、この施設に「桂木夫人」=写真左=というのが入居(登場)して、治五郎は大いに困惑した。(いや知ってるんだよ。何度も見たような顔なんだが、思い出せない)。このドラマは、そんな高齢者の脳を少しでも活性化させるために作られているのだろうか。だったら厚生労働省あたりの後援があってもよさそうだ)

 桂木夫人役は、(若いモンは知るまいが)あの大空眞弓=写真右=だった。OH! ワシゃ別にファンというほどではなかったが、今はこういう容貌になっていたのか!(写真左は、これでも作ってる方)

 脚本を書いている倉本聰(84)は、脚本家役の石坂浩二(78)や大空眞弓(79)とは旧知どころではない「仲」であり、浅丘ルリ子(79)・加賀まりこ(75)・いしだあゆみ(71)など大変な顔ぶれを贅沢に駆使してドラマを作っている(らしい)。

「お互い、年を取っちゃったわねえ」「でも倉本先生に指名されたんだから、しようがないわよ」と、彼女らは観念したのだろう。

それにしても、堂々と顔をさらした大空さんは偉い!

倉本に、弟子筋の元プロデューサー・碓井広義さんとやらが聞き書きした「ドラマへの遺言」(新潮新書)を読んでいたら、こんな一節に出合った。

「僕がいまもって金科玉条にしているのは、チャップリンの<人生はアップで見ると悲劇だけど、ロングで見ると喜劇だ>っていう言葉で、それが一番高級なドラマではないかっていう気がするんですよね。やっぱりそれを書きたいと思いますね」

 治五郎が尊敬する倉本聰は、80代も半ばとなった今、その「一番高級なドラマ」に迫っているのだろう。(べた褒めしてるわけじゃありませんよ)

お城のエレベーターと「頂門の一針」

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 <安倍晋三首相は2日、大阪城の復元時にエレベーターを設置したのは「大きなミス」とした自身の発言について「遺憾だ」と述べた。自民党萩生田光一幹事長代行と党本部で会談した際に語った。萩生田氏が記者団に明らかにした。

首相は「取りようによっては、障害者や高齢者に不自由があってもしょうがないと聞こえるかのような発言をしたことは、ちょっと遺憾だ」と伝えた。同時に「バリアフリー社会に異を唱える発言ではない」とも語ったという。萩生田氏によると、首相は、エレベーターは四百数十年前にはなかったことをアピールしたかったという。(中略)首相は6月28日夜、20カ国・地域首脳会議(G20大阪サミット)の夕食会で、大阪城に言及。インターネット上などで「障害者への配慮が足りない」といった批判が相次いだ。>(共同)

治五郎は安倍首相の支持者ではないが、今回は少し同情させられた。「バリアフリー社会に異を唱えた」わけではなく「障害者への配慮が足りなかった」のだ。

問題の夕食会で、彼が大阪城のエレベーターに触れた時は「ほう」と思ったが、誰も笑う人がいないどころか一部で反感を買ったのは、まことに気の毒なことであった。

内田百閒が慕った「烏城」こと岡山城を初めて訪ねた時、それが再建後はエレベーター付きと知ってゲンナリしたのを思い出す。(だって城の真ん中にエレベーターだぜ)

あのゲンナリ感は、しかし今となれば「障害者や高齢者への配慮が足りなかった」ことになるのだろう。安倍失言は頂門の一針というべきか。

【頂門の一針】頭上に針をさすように、痛いところをつく教訓。

人間の考えることだから、いずれは富士山どころかエベレストの頂上までも車椅子で行けるエレベーターが作られる時代が来るのではないだろうか。しかし、それはワタクシたちにとって本当に幸せなことなんだろうか。

文在寅と習近平を「読む」

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新解さんで「読む」の項を読むと、意味が㊀から㊅まである。㊀と㊂を挙げよう。

㊀書かれている文字の音を声に出す。「朗朗と― / 経をー」

㊂現われている事柄から深い意味を察知したり 将来の動きを推測したりする。「相手の心をー/ 作戦を読まれる / 票をー / 鼻毛をー〔=自分にほれている男の心を見すかして手玉に取る〕

鼻毛うんぬんは新鮮だが、タイトルの「読む」は㊂ではなく㊀の意味。韓・中の国際戦略を分析しようなどという魂胆を治五郎は持っていないので、深読みしないように。

文在寅=写真左=といえば韓国の大統領であり、習近平=写真右=といえば中国の国家主席であることは、日本では常識とされている。しかし漢字の読みはどうか?

新橋駅前へ行って100人の「街の人」に聞いてみよう。

文在寅については82人が「ムン・ジェイン」と読んだが、習近平については「シー・ジンピン」と読めたのは4人で、93人が「シュウ・キンペイ」と答えた。残る3人は「わからない・どちらでもない」(架空アンケートだから、数字はいい加減だよ)

ここで日本人は、少し立ち止まって考えなくてはいけないと思う。どうして、南北を問わず朝鮮半島の固有名詞(人名・地名など)は現地読みで覚えられるのに、中国のそれは覚えられないのか?

朴槿恵はパク・クネであり、金正恩キム・ジョンウンだ。珍島(チンド)だって済州(チェジュ)島だって読める。しかし、たとえば胡錦濤をどう読むのか、そもそも毛沢東周恩来はどうだったのか? 分からなくなってくるではないか。

最近の新聞では「習近平」に毎回、うるさいくらい「シージンピン」とルビが振ってある。が、テレビが追随しないせいか一向に定着しない。先日は、ある討論番組で誰かが「シーさんは」と言ったら、周りが一瞬キョトンとしていた。

ジェインは英語の「Jane」だから(?)覚えやすく、ジンピンは漢字で書くと「人品」を連想するからシックリ来ない。と、そういう問題でもないような気がする。

中国語も韓国(朝鮮)語も漢字で表記できる点は共通しているが、後者ではハングル文字の方が今は一般的なので、漢字なら意味が分かるがハングル文字を大半が読めない日本人は、中国語を日本式の音読みで済ませ、韓国(朝鮮)語は現地読みを耳で覚える方が手っ取り早いという、歴史的な背景があるのではないか?

治五郎の愚考は今のところ、この辺で行き詰まっている。どなたか親切に、ご教示願えないものだろうか。(そう逃げないでよ)

「スマホ」は国語か

 

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親愛なる新解さんこと新明解国語辞典に「スマホ」の3文字が載るようになったのは、2012年1月発行の第七版からである。それ以前は「スマート」しかない。

スマート〔smart〕㊀身だしなみやスタイルがよく、しゃれた感じを与える様子だ。㊁言葉が明快で、好感を与える様子だ。

第七版に登場したスマホも、まだ見出し語にはなっていない。

―フォン 〔smart pfone〕パソコンに準ずる機能を持った携帯電話。メールやウェブ ブラウザーなどのネットワーク機能やスケジュール管理機能などを持ち、多くのソフトウェアを使うことが可能。「スマートホン・スマホ」とも。

いいかい爺さん。これが現代の優れた国語辞書というものなのだ。パソコン、メール、ウェブ ブラウザー、ネットワーク、スケジュール、ソフトウェア。これら6個の外来語のうち、どれか一つでも理解できないと「スマホ」の意味にはたどり着けない。

恐ろしい時代ではないか。

国語辞書なのか外来語辞書なのか分からない。しかも、一つの外来語の意味を調べるのに、ほかに無数の外来語を知っていなければ五里霧中。「スマホ」の意味を日本語だけで説明し切るのが「期待される国語辞書」像なのだが、新解さんでさえ諦めている。

特に、日本では海外で通用しない「和製英語」が幅を利かせているから、パソコンとかスマホとか余計な新語が日々、限りなく増殖している。高齢者にとっては年金問題にも増して、異世代との会話の困難という問題が深刻化しているのだ。

治五郎は、いまだにスマホを持っていない。家でブログを書いたり調べ物をしたり、長文のメールをやり取りしたりするにはパソコンがあれば十分なので必要性を感じず、ガラケー=写真=で満足しているわけだ。(「ガラケー」は、さすがに新解さんにも載っていない。第八版が出る頃には、ガラケー自体が世の中から消滅しているだろう)

なんだ爺さん、ガラケーとは何かって?

うん、ガラパゴス諸島というのは聞いたことがあるだろう。ガラパゴスのような携帯電話だよ。なに、ますます分からない? そうだよなあ。

恐ろしい時代なのである。

どうしても興味の湧かない競技

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 とても好きなのは大相撲、そこそこ好きなのがサッカー。別に熱心ではないが、比較的よく見るのがプロ野球&甲子園。

女子のなら好んで見るが、男子のはあまり見たくないという競技もある。体操、水泳、バレー、陸上競技、それから冬場だとカーリングね。気のせいか、これらについては観戦の動機に何か不純なものも少し感じられる。(気のせいではあるまい)

 ぜんぜん見たいと思わず、BS中継が始まろうものならチャンネルを替えてしまうのがラグビー(写真左)とバスケットボール(同右)だ。アメリカンフットボールなどは、もってのほか! なぜなんでしょうね、これは。

つらつら思うに、

つらつら 問題となる事柄について、見過ごしてきた点はないか、一面的な見方をしてきたのではないかなどと、改めて広い視野に立って考えを深める様子。

古いタイプの日本人である治五郎にとって、これらのスポーツは馴染みがないばかりでなく、ひとことで言えば「美しくない」のだと思う。

有無を言わさず〔=承知でも不承知でも、本人の意向に関係無く〕体格と体力で相手をやっつける。どこか「アメリカ的」ではないか? 

米国・NBAの試合なんかで身長2メートル、体重100キロの巨漢にダンクシュートを強行されたんじゃ、170センチ台の日本男児には為すすべもない。バスケは、どうしても日本人向きではないのとちゃいまっか? 3~4片の刺身をワサビ醤油でいただく民族と、自分の顔の半分もあるハンバーガーをペロリと平らげる民族の違いだ。

と思っていたら、富山県育ちの八村塁という青年が現れて大人気。テレビ各局は今秋以降、新たに〝塁番〟の記者やカメラマンを常駐させることになるだろう。試合中継を見たいような、見たくないような・・・

あまり突き詰めると「日米安全保障条約」にまで話が及びかねず、それは今回のテーマではないからやめておくが、上記の諸競技がサッカー(日本以外では大体「フットボール」)に比べ、地球規模の普及が見られないのは、アメリカ的であるか否かの違いによるのではないか。

ちなみにモンゴルでは、なぜかバスケットボールの人気が高い。あんなに広い草原だらけなんだからサッカーに向いていると思うんだjが、首都ウランバートルでは小さな公園や空き地で誰でもバスケットボールが出来るようになっている。

横綱鶴竜なんかはNBAの解説が出来るほどの「通」らしい。これまた不思議な「地球のスポーツ事情」である。