ボーッと往来を眺める

f:id:yanakaan:20170724142504j:plain

往来というのは①「行くことと来ること」②「道路。通り」のことで、ここでは②の意味だが①をも含意している。すなわち、道路といっても滅多に人が通らない農道や、車しか通らない高速道路のことではなく右から左へ、左から右へと頻繁に人や車(人力車ではない)が行き来する道路というイメージ。

昔は街のあちこちに縁台=写真=というものがあって、夏の夕方になると、地元の暇な隠居じいさんが二人で将棋を指したり、一人でボーッと往来を眺めたりしながら「涼む」姿がよく見られた。ワシも、そういう境涯に立ち至ったようだ。

近所に縁台は見かけないが安い賃貸マンションの1階なので、ベランダから往来を眺めることが多い(自転車置き場と、100円ローソンで買ったスダレ2枚(計200円、税込み216円)のおかげで、こっちに気づいて怪しむ通行人はいない)。

服装で明らかにイスラム教徒と分かるおばさんとか、声高な中国語のカップルとか、なかなか国際色も豊か。目の前を通る時間はほんの1、2秒なんだが、それぞれの人生が圧縮されているようで見逃せない。2秒間のドラマとでも申しましょうか。

隣の分譲(らしい)マンションの入り口前に毎日、何時間も腰かけて往来を眺めている〝大先輩〟がいる。一度、声を掛けてみたのだが反応は全くない。だいぶアレが進行しているのではないかと思う。

自室のベランダに戻って往来を眺めながら、人間の「長寿」や「幸せ」について、ワシなりに深い思索を巡らすしかないわけである。