「みんなちがって、みんないい」のだけれど・・・

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はい、この人=写真=は童謡詩人の金子みすゞさん(1903~1930)ですね。

 

<わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。>

 

これは、代表作「わたしと小鳥と鈴と」。ものごとを優劣や好悪でとらえるのではなく「ちがう」ことの大切さを考えさせてくれる。治五郎も深い共感を覚えます。

これは人間関係についても言えることで、100人の人がいれば100人それぞれに他とは違う美点・長所がある。ワシは何事も「悪いところ」より「良いところ」に目がいく性分らしく、嫌いな人よりは好きな人の方が断然、多い(食べ物に「好き嫌い」がなく「好き好き」なのも、あるいは関係があるかもしれない)。それで騙されたり損をしたりすることもあるが、別にチッキショーと恨んだり後悔したりしたことはない。

しかし「好き好き」も同性同士なら問題ないが(あるか)、相手が異性だと話が難しくなってくる。「A子さんの性格は申し分ないが、首から上が(下も)ナンだな」とか、「B子ちゃんは素晴らしい容姿なのに、味覚があまりにもアレだ」という風に。

さらに考究するなら「目はナンだが鼻が少しアレだ」「手の指がアレなのに足の指はナニだ」などと、もうナニがナンだか分からなくなってくるのが常人というものだろう。(常人ではない、治五郎だけだ。と、そうおっしゃるか)

遠い昔に「結婚」(一部を除けば一夫一婦)という窮屈な制度が生まれ、配偶者以外の異性にあまり美点や魅力を発見してはイカン! という倫理規制が生じたわけだが、これは「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの思想とは逆ベクトルであって人間の正しい本性とは相容れない。従って「結婚制度」には根本的な無理がある。

・・・てなことをサ、治五郎は30年ほど前から主張してきたのだったが、よんどころなくジゴロとなり果てた現在は、もう何も申しません。