メジャーよりマイナー 明より暗 

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生来の無口である。なにしろ生まれた時が仮死状態で、オギャーなどという音はたてずに黙って出てきたという。大過なく成長してからも無口に変わりはなく、ず~っと「寡黙なやつだ」「何を考えてるんだか、よく分からない」と思われてきた節がある。

しかし性格が暗いわけではなく、むしろ明るい方だと自分では思っている。(当ブログの数少ない読者も「明るさに問題はあるが」と条件付きで同意するだろう)

ところが、例えば自分の音楽の好みを顧みた場合にハッキリするのは、タイトルに掲げた通りの〝偏向〟だ。(治五郎の青春時代は、アメリカ伝来のロックやフォークがいわゆるニューミュージックへと移行する頃。もちろん、歌といえば演歌なども含む「流行歌」であって、ポップスなんちゅう言葉は耳慣れなかった)

ライブコンサート=写真=などに行った経験は一度もない。みんなと一緒に盛り上がったり騒いだりすることがどうしても出来ない性格なんですね。

得意ジャンルではないが、演歌を例に取ろうか。「明るい演歌」と「暗い演歌」があって、ワシは前者が大の苦手で後者一辺倒だ。(以下、登場する曲名がピンと来ない世代は、しばらく近所の喫茶店でアイスコーヒーでも飲んでなさい)

演歌は、すべからく「陰陰滅滅」「鬼哭啾啾」を旨とすべし。聞く者が思わず、すすり泣きするようでなければダチカン(愛知・岐阜地方で「ダメだ」という意味の方言)というのがワシの持論だ。最高峰は美空ひばりの「悲しい酒」あたりかな?

八代亜紀の「酒よ」、北原ミレイの「舟歌」、吉幾三の「石狩挽歌」。この辺も泣ける歌で、捨てがたい(少し混線しているようですが、そこは常識に従って整理して下さい)。演歌の神髄は「暗さ」と「苦さ」にある、と治五郎は思い込んでいる。

異を唱える人も多かろう。う~ん、また話が長くなりそうだから、今夜はここまで。(おい若いモン、アイスコーヒーは飲み終わったか? なに、アイスカフェラテにした? 生意気な!)