「新」は必ず「古」になり、いずれは消える

f:id:yanakaan:20170829143434j:plain

羽田孜さんが82歳だかで亡くなった。別に好きでも嫌いでもなかった人物だが、半袖スーツの「省エネ」スタイルに何の違和感も覚えなかった、と言えば噓になる。しかし今はそういう話をしようとしているのではない。

新自由クラブとか新生党=写真=とか「新」の付く政党が、ヨドミに浮かぶウタカタの如く生まれては消える歴史を繰り返してきた。かつては連日、新聞の1面に登場したのに今は「そんな党、あったっけ?」と、投票した人でさえ忘れているだろう。

結党以来1世紀近く、頑固に元の党名を変えないでいるのは、地下に潜るしかない(モグラみたいに穴を掘ったわけではない)時代も経験した日本共産党だけだ。

「新」が時間を経て必ず「古」になるのは、畳でも女房でも同じ道理。大人なら、そのくらいの分別はつくはずなのに、新しい政党は張り切っているからか浮かれているからか「新」の字を使いたがる。

よく飲食店の店先に「新メニュー始めました!」などと書いた張り紙があって、何年前に書いたものやら、すっかり変色してボロボロになっているのを見かけますね。「新」を伴うネーミングはあの哀しい光景によく似ているような気がする。

最近は、また新しい政党が出現しそうな雲行きだ。それが「新〇〇党」や「〇〇新党」になるか、ならないか。(治五郎としては、どっちでもいい話だが)