戦争とスポーツと闘争本能

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敵を倒して勝ちたいという本能が、太古から人類にはあるようだ(人類以外の動物にも)。それで戦争というものがなくならない。

「勝って喜びたいならスポーツだけにして、ほかは一切の『勝敗』を国際法で厳禁にしたら?」という意見は昔から存在した。オリンピックも、根底にはその精神があるだろう。一見すばらしい発想なのだが、これは「愚かさ」という人類の普遍的な本質を見落としていると思う。

各国の歴代独裁者を引き合いに出すまでもなく、死ぬまで(死んでも)治らないバカという性質を持つ人間の数は、何千年たっても決してゼロにならないのではないか。

治五郎はスポーツ観戦が好きな方だが、自分でスポーツをやりたいとは思わない。思ったって今からじゃ物理的に無理だが、少年時代からそうだった。なぜか?

「勝つ」ことが嫌なんですよ。もう、嫌で嫌でしようがない。

サッカーでも野球でもバレーでもテニスでも相撲でも、スポーツの基本原理は同じことだが、今回はバドミントンを例に取ろうか。「タカマツ」ペア=写真=にワシは惜しみない声援を送る者である(特にマツの方はどこか〝ネズミ系〟の愛らしさがあって、本人は気を悪くするかもしれないが、ワシは好感を隠さない)。しか~し。

試合を見てみたまえ。敵=相手が「そこには打ち込んでほしくない」「あ、そこだけは堪忍どっせ」という、まさにその弱点を「え~い、これでもか、これでもか!」と攻め立てる(情け容赦もなく)。ネズミが鬼のような形相になっている。

そして大接戦を制したとしよう。負けた相手=敵は「昨日までの自分の努力は何だったのか」と泣き崩れている。それを見て、勝った自分は「やった~!」と満面の笑みを浮かべたりできるものなんだろうか。(ワタクシには出来ません)

打ちひしがれた相手の姿が視界の片隅にでも入ったら笑うことなどできなくなるのが、本来あるべき人間の姿ではないのか。え? おい、どうだ。ドン!(机を叩く音)

勝って喜ぶことに誰も疑問を抱かないようだが、この治五郎の考えは間違っているのだろうか? そこんところが、ワシにはよう分からんとよ。(続きはまた明日にでも)