戦争とスポーツと闘争本能(続き)
治五郎は、闘争本能に障害があって「勝つ」ことへの嫌悪感がある。従ってスポーツは見るだけで、自分がやることは出来ない。という話をした。
この困った性格を改めようとせず、放置すればどういう方向へ進むかというと、あの宮沢賢治さん(1896~1933)の世界に近づかざるを得ないように思う。
彼は優勝劣敗=生存競争というものに対する極度のアレルギーがあった、と治五郎は分析している。おいしい肉や魚を食って食欲を満たしたり、異性の肉体によって自分の性欲を満たしたりすることに強い罪悪感があった。青年期以降、ベジタリアンだったことは事実のようだし、死ぬまで童貞だったという説にも説得力がある。
世の中、こういう人ばかりだと戦争など起こりようがないのだが、栄養士は「動物性たんぱく質を摂らなきゃダメよ」と言うし、神社仏閣は当然のことのように「子孫繁栄」を奨励する。賢治タイプの人は、まことに生きづらいのである。
治五郎はどうかというに、少食とはいえ雑食性でアンコウの肝と羊の脳みそが大好物と来ているし、若気の至りで子供も二人生んだ(ワシが生んだわけではないが出産の原因を成した)。賢治さんに顔向けできない。
彼の理想は、有名な「デクノボー」だ。地獄と極楽があるとすれば(ワシはないと思うが)デクノボーは極楽に行くとしか思えない。
しかし極楽は極楽で結構、つらいと思うよ。何のトラブルも悩みや苦しみもなく朝から晩まで、蓮=写真=の台(うてな)に座って「いつも静かに笑っている」・・・これは〝退屈地獄〟だろう(と言ったらバチが当たる? 当たらないとワシは思うが)。