「有る」ことより「無い」ことの証明が難しい

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 よく見慣れた漢字が、じーっと見ているうちに「なぜ、こういう形なんだっけ」と分からなくなり、やがて、書こうと思っても書けなくなることがある。

(なに、そんなことない? それはアンタがワシよりずっと若いだけだ。 なに、もう74歳だって? そりゃアンタの脳が人並外れて立派に機能しているからだ)

そんな漢字の1例が、ワシの場合は「無」だ(ほかにも無数に有る)。漢和辞典を引けば理屈は納得できるんだが、そういう問題なのではなく、いちど理解しても数日後には記憶に「無い」ところにこそ、事の本質は「有る」のである。

話は少し飛躍するが、「神」というものは有るか? 「あの世」は有るか? UFOはどうか? ワシはどれも無いと思っているが、「なぜ?」と突っ込まれると厄介だ。

「だって、有るという証拠が一つも無いじゃないか」「では、無いという証拠は?」

こうなると、科学文明とやらにドップリ浸かった現代日本人は窮地に立たされ、しどろもどろにならざるを得ない。司法の世界では、いくら心証が真っ黒でも確かな証拠が無ければ「有罪」にはできないことになっているが、被告人に罪が「有る」ことを証明するよりも「無い」ことを証明することの方が何百倍も難しい。

いつか丹羽基二という「苗字博士」に会って聞いた話を思い出す。全国の100万基とも130万基ともいわれる墓を自分の足で調べ歩いた人だ。

確か年末か年始だったので「新年、なんていう苗字はありますか?」と尋ねたら、即答が返ってきた。「新年さんという人は、います。しかし正月さんはいません」

ワシは、彼が「正月」という姓は無いと断言したことにビックリ仰天した。なんちゅう人だ!

けっこう仲良くなった丹羽先生は、2006年に80代で亡くなった。万々一、正月という姓の人を見つけたら、冥土へ行ってでも抗議したいが、ワシは「あの世」など「無い」と思っているので、そんな日が訪れることも「無い」だろう(証明はできない)。