「増えること」と「ありがたみ」の哀しき相関関係
ノーベル賞の季節である=写真は創設者=。日本のマスコミ界は総選挙を目前に控えて人手不足状態だから、日本人が受賞しないか戦々兢々としている。
ノーベル賞も湯川秀樹、朝永振一郎、川端康成の受賞あたりまでは強烈なインパクトがあって、その後も何十年かは続いたが近頃は毎年、2人も3人も受賞するもんだから、治五郎みたいな者には覚えきれない。「へえ、また取ったか」てな感じ。
だんだんにノーベル賞の「ありがたみ」が薄れてきているのである。(平和賞や文学賞は、客観的な評価に無理があるのでワシは廃止論者だ)
ノーベル賞に限らず、日本人宇宙飛行士にしろ世界遺産にしろ、数が増えるにつれて貴重度が落ちてくる。世界中が世界遺産だらけになって、どこへも行く気が失せた。
受賞したり指定されたりした人や関係者だって「あ、また仲間が増えた。嬉しい!」とは思わないだろう。後続者には(あっち行けシッシッ)が本音ではあるまいか。
栄光は、なるべく自分だけのものに。これが人間の哀しい本性なんだなあ、と感じるにつけ、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はなるほど名作であったと思う。