「行列」考

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治五郎の苦手なものの一つに「行列」がある。

古くは物資不足の旧ソ連で、モスクワの食料品店や薬局に何時間も並ぶ人々を見て「大変だなあ」と思ったものだ。(今は北朝鮮などで毎日どこでも見られる光景なのだろうが、北朝鮮の場合、本当の市民生活を我々が見せてもらうことはできない)

60~70年も前に食糧難からは解放された日本でも、行列の出来る店は多い。朝鮮半島も北ではなく南のソウル=写真=あたりだと、人気店の前に行列が出来る事情は同じらしい。この「人気店の前に並んで待つ」ということが、ワシにはできないのだ。

待てないほど腹が減っているわけではなく、高級グルメ志向が全くゼロなので「この店の蕎麦でないと!」などとは思わない。「藪蕎麦はまた混んでるな。ゆで太郎(立ち食い蕎麦)の冷やしタヌキでいいや」てなもんや三度笠。(年齢が出るな)

若くて食欲その他が旺盛だった頃は、北京亭なら北京亭の担々麺なら担々麺が脳裏に浮かぼうものなら、もう北京亭の担々麺ひとすじ。10分や20分は平気で待てた。

待つうちに欲望は沸点に達し「もう待ったなし、今すぐ!」「玄関先で靴も脱がず、押し倒してでも思いを遂げたい!」という狂おしい気持ちになったものだ。(告白すると、この辺の叙述は東海林さだおさんの真似です。失礼しましたショージ君)

40を過ぎたあたりから、食べ物のことで思い惑うようなことはなくなった。これが「不惑」の語源ではないかとワシは推理している。