人間の本質と訂正記事

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ある動物写真家(猫と会話できる岩合光昭さん=写真=とは別の人)が、こんなことを書いているのを読んだことがある。

「ちょっとした一瞬の判断ミスで命を落とすことが、動物にはよくある。しかし間違いを犯すまい、犯すまいと高度な理性を働かせ、十分に注意しながら行動して、それでも間違いを犯してしまう唯一の動物がいる。それが人間だ」。う~む、深い!

 

先日の読売新聞(夕刊)の「訂正 おわび」欄を紹介しよう。(古巣の恥を拡散したいのではなく、最終的には褒める方向にもっていきたいのだが)

<「福島第一事故でゴルフ客減」の記事で、「福踊好勝専務」とあるのは、「福躍好勝専務」の誤りでした。確認が不十分でした。>

「あれ? そんな記事あったっけ」と、前日の夕刊をひっくり返すことになるわけだ。原発事故の影響で客が減ったゴルフ場の運営会社が、東京電力に損害賠償を求めた裁判の判決を報じた記事で、原告を代表して取材に応じた福踊専務の名字は珍しいので「ふくおどり」と、わざわざルビが振ってある。ところが「確認が不十分」で実際は、もっと珍しい「福躍」という名字だったのである。

「こんな変わった名前なら普通『十分』な確認をしないか?」という批判は、ごもっとも。だが、そこがそれ、いくら注意しても間違いを犯してしまう「人間」の宿命だ。

テレビだと、放送中に間違いを指摘する声が届くから「福踊は✖で、福躍が〇でした」で済むが、新聞には縮刷版というのもあるから訂正記事は未来永劫、残る。間違いを犯した記者は最低でも始末書、場合によっては進退伺や辞職願ということになる。

重大な鉄道事故などの原因が「うっかりミス」だったりすると、それを追及するのがマスコミの使命とされている以上、記者が負わされる責任もそれだけ大きいわけだ。

昔の訂正記事は出来るだけ小さく目立たない場所に載っていたものだが、新聞社も「人間は過ちを避けられない動物だ」ということを学習したので、日常的に「訂正 おわび」欄を設けるようになった。いいことだと思う。(ちゃんと褒める方向に来た)

えっ、「治五郎は進退伺や辞職願を出したことはないのか」って? それはないが、始末書なら・・・テヘへ、37年間に1度、いや2度、いや3度ほど書いた記憶があります。(ほかの記憶は失っても、こういう忌まわしい記憶は消えてくれない)

それはそうと「福躍」という名字は何に由来するのだろう。遠祖の誰かが、とんでもない幸福に見舞われて欣喜雀躍したという エピソードでも残っていなければ、この名字には合点がいかぬ。福踊さん(いや福躍さん)には会ってみたいな。