なぜか年中行事というものに冷淡な私

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なぜなのか、分からない。相撲が好きなくらいだから日本の伝統文化に多少の理解はあるはずなのに、治五郎は年中行事というものが苦手である。正月、お彼岸、お盆。どれも好きではない(好きとか嫌いとかいう問題ではないような気もするが)。

しめ縄=写真=や門松なんちゅうものは、見たくもない。飾る場所がないという己の居住環境は、この際ほとんど関係ない。初詣なども、付き合いで行くことはあるが自分から行こうと思ったことは一度もない。なぜだろう。

そもそも「合掌」という動作が苦手である。学生時代の研修旅行か何かで汽車(いや、もう電車の時代だった)が人身事故に遭遇し、窓から遺体を見た時に女子が思わず両手を合わせるの見て「神々しさ」を感じたのが最後だったのではないか。

初詣に(渋々)行って拝殿の前に立っても、手を合わせる自分の姿が我ながら虚偽と欺瞞に満ちている(神仏は、そこを見抜けなければ神仏ではない)。従って、賽銭箱には5円以上の金を投げ入れた経験がない。

「信仰心」というものがゼロだとは思わないのだが、それを態度や行為で表現することができない。なぜだろう。

つらつら思うに、これはやはり「美化・様式化」されたものを受け入れられない体質によるのではないか。せっかくの信仰心が、ぶち壊しになる(ような気がする)のだ。

日本の年中行事でさえそうなのだから、いわんや〝舶来もの〟に於いてをや。クリスマスは昔からあったが、遠い国の馬小屋で生まれたイエス・キリストと、極東の黄色人種たるワタクシに一体、何の繋がりがあるのかという疑問は幼時からあった。

そのうちバレンタインデーなどというものが幅を利かせるようになって、いやがうえにもワシの不快感に拍車がかかった。(今年は一個ももらえなかったとか、チョコレートは糖尿病に悪いとか、そういう次元の話をしているのではないよ)

「なにい、ハロウィンだあ? おい、表へ出ろ!」 おとといのサンド会がそういう事態に立ち至らなかったのは、まことに幸いなことであった。