諦める民族、諦めない民族

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今年の大相撲九州場所横綱日馬富士の暴力事件や、日本相撲協会に対する貴乃花親方の〝反乱〟で土俵外の話題に事欠かない。誰が優勝するかという問題は二の次になってしまっている感が(現時点では)ある。残念なことである。

昨日は、結びの一番で負けた横綱白鵬が軍配に納得せず、土俵の上や下で1分前後もゴネてみせるという前代未聞の珍事が発生した。相撲協会の親方衆もマスコミも、白鵬には「横綱にあるまじき態度」と手厳しい。

「治五郎親方は、どう考えますか?」

「あの立ち合いは成立しとる。『待った』を主張する方に無理がある。ただ・・・」

「ただ、何ですか?」

「これは横綱個人の性格や品格の問題ではなく、民族の違いの問題なんじゃよ」

「なるほど・・・はあ?」

 

日本人は「諦める」という言葉が好きだ。新解さんによると、「望んでいることが実現出来ないと判断して、それ以上努力することをやめる」ことである。「諦めが肝心」と言い、諦めない人は「往生際が悪い」と非難される。

「押してダメなら引いてみな」という名文句もあって、ワシなどはこの金言を思い出さないと自分のマンション(賃貸です)にも入れないくらいだが、「引かなきゃならないのなら、いっそ諦めます」というのが潔い日本人なのである。「みごと散りましょ」の世界。だから、だらだらと咲いているアジサイよりも、数日で散る桜を好む。

話を相撲に戻すと昔、横綱大鵬=写真=が戸田に敗れて連勝記録を45で止められた。実際は戸田の足が先に出ていたため「世紀の大誤審」として有名になり、ビデオ判定が導入されるきっかけになったわけだが、大鵬自身は抗議することなく「あんな相撲を取った自分が悪い」としか言わなかった。ここに「巨人・大鵬・卵焼き」と言われた日本民族の愛してやまない「諦めの美学」がある。

ただし、民族の問題は難しい。大鵬(本名・納谷幸喜)は父が旧ソ連(現ウクライナ)人であり、ソ連に諦めの美学があったかと問われるとワシも困る。北方領土を返さないのは往生際が悪いどころじゃないだろう? と迫られると、ますます窮する。

ところで今、ブログを書きながらウクライナ民族音楽を聴いているんだが、なかなかいいねえ。ロシアにしろウクライナにしろ、あっち方面の民謡はどうしてあんなに哀調を帯びているんだろうか。

(「哀調」をなんとかして「諦め」の方向に持っていこうとしているんだが、うまく行かない。モンゴルは民族的にどうなのか、という問題もどこかへ行っちゃった。今夜はもう「諦め」て後日、顔を洗って出直すとします)