時代遅れの男の〝草分け〟的な側面

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治五郎は(青森県に於いては)「帰国子女の草分け」と言われている。(記録を調べればそんなことはないと思うが、帰国子女なんていう言葉さえなかった1960年代初期は、どこへ行っても非常~に珍しがられた)

父親が西ドイツ(当時)に留学していた関係で、6歳から9歳まで約3年半をフランクフルト郊外とハイデルベルク=写真=の近郊で暮らしたのだ。日本人学校どころか家族以外に日本人はいないし、学校でもドイツ語しか通じない。帰国する頃は、妹と口喧嘩するのにもドイツ語の方が楽になっていた。(今じゃ買い物もロクに出来ない)

帰国後が大変で、とりあえず弘前市立朝陽小学校に編入させられたのだが、特に日本語の読み書きでは往生した。日独では入学時期に4月と9月の違いがあるので、小学校長も教育委員会もかなり困惑したらしい。

結局、4年生の一学期を飛ばすことになった。いやあ、これはシンドイよ。「九州って、どこ?」「江戸時代って、いつ?」と、さっぱり分からないことだらけ。「ここはどこ? わたしはだれ?」の世界に近い。

 「あの落ちこぼれ児童が、よくまあ日本社会で大過なく生きてこられたなあ」と、当時の担任教師(彼も苦労したに違いない)に代わって褒めてやりたいくらいだ。

 

治五郎は「花粉症の先駆者」でもある。原因は何の花粉なのか、そもそも花粉だったのかどうか、今となっては歴史の闇に葬られて永遠の謎であるが、春先になると地獄の苦しみを味わった。特に目の痒さが耐え難い。子供だから、どうしても目をこすってしまう。すると目玉の周りがブヨブヨに膨らんでしまう感じだった。

もし仮に花粉症が感染するものだったとすれば、発生源は海外から病原菌を持ち込んだ治五郎少年だったと追及されても反論できない。小・中・高と受難の時代は続いたが、花粉症というものが世に知られるのと軌を一にして、ワシの症状は回復していった。30過ぎたら何でもない。なんだかスイマセンね。(謝ることもないのか)

後遺症はないかとお尋ねですか? ほとんど、ありません。年に2、3度、クシャミを続けて20回ぐらいする程度でしょうか。〝最盛期〟を思えば天国みたいなもんです。