最初の海外出張先が果たした役割

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治五郎は、6~10歳の3年半をヨーロッパで過ごしたが、その後は30代半ばまで海外に行く機会がなかった。新聞社の社会部での労働環境は厳しかったもののワシの場合、まあ、いわば〝働かない奴隷〟という感じだったと思えば間違いない。

1989年の2月初旬、いきなり「ミクロネシアへ行ってこい」と言われた。社が行なっている福祉事業の一環として毎年、南洋の島々に医師・看護師を派遣していた。その同行取材である。「海外未経験の暇そうな記者」に白羽の矢が立ったのだろう。

ミクロネシア連邦は当時、アメリカの信託統治時代が終わる頃だった。グアム経由で現地入りしたトラック諸島の「モエン島」は、千代田区ぐらいの面積に約1万人がパラパラと住んでいる。眼の風土病患者が多く、医療チームは大歓迎された。

眼の手術なんて見てもしようがないから、住民との雑談が仕事みたいなもんだ。戦時中は日本の支配下にあっただけに、高齢者は日本語が出来てカメラをシャシン、飛行場をカッソーロと言う。働いている人を見かけないのが、とても印象的だった。

ほとんど一日中、ヤシ=写真=の木陰で寝そべっている。病院の内外を走り回る看護婦(まだ看護師という職業名ではない)の姿を見ながら、「なんで日本人はあんなに急いでばかりいるんでしょう?」と、力士みたいな体格の女子高生が言うのを聞いたら、思わず「そうだよなあ」。自分の視点が相手と同一化しているのに気づかされた。

 

これが始まりだった、と言えるだろう。翌90年の末に、ペレストロイカ時代のロシア(まだソ連だった)に3週間。せっかくの機会だからとキリル文字の読み方を覚えたら、その4か月後にモンゴル(まだ人民共和国だった)へ行くことになった。

人生の前半と後半がクッキリ分かれる前段として、あの島で過ごした1週間には感謝しても感謝しきれないのだ。