「美を競うスポーツ」の問題点

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 この件については、昨年11月だかに「女子スポーツ雑感」と題して書いたばかりなので、くどくどしいことは言いたくないのだが、正義と公平の観点に立てばやはり看過できない問題があるように思われる。(ええい、止めてくれるな、おっかさん)

 フィギュアスケート(特に女子)の採点について、治五郎には腑に落ちないことがある。(写真は、あくまでイメージなので個人名は伏せる。伏せても分かるか)

「実力」という場合に「容姿」は何%の比重を占めるのかという疑問である。「生まれつきの容姿は、関係ありません。演技の出来栄えがすべてです」と強弁するスケート関係者がいるかもしれないが、それは「きれいごと」ではないだろうか。

【綺麗事】見かけや口先だけ一応体裁よくつくろってあるが、実質の伴っていない事柄。

新解さん新明解国語辞典)が別の項目で定義している通り、【実社会】は「虚偽と欺瞞に満ち」ている。生来の容貌や体形とは無関係に金メダルも可能? そんなバカな。

「美を競う」と言うからには外観も大切な要素だろう。そこに非情な現実がある。氷上に選手が並んだ時点で「あ、こりゃOARに敵わない」と思いますもん。

「治五郎はロシア系の美女に弱いわけだな?」「いや、そんなことは・・・あるかも」