古新聞の中の人生

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 5年前、60歳の定年退職直後に社内報の「ご苦労様でした」コーナーに書いた文章が出てきた。気持ちは今も変わらないので、恥ずかしながら紹介しておこう。

 

≪この欄では社に対する型通りの謝辞や昔の手柄話を記す人が多いけれど、あいにく手柄など何もない。ただ、書きたいことを書きたいように書きたいだけ書かせてもらったという実感はある。長く携わってきた日曜版に、退職当日の3月3日付まで原稿を書けたことは最大の喜びだ。

記者稼業の面白さは、ひとことで言えば「出会い」だった。取材した相手が何千人いるかは数えようもないが、知り合ったAさんを別な職業のBさんに引き合わせると、彼らの新しい世界が開けていく。そんな体験を何十回も味わった。

新聞は、翌日には資源ゴミとなる運命を背負ってきた。記者の署名など読者の記憶には残らない。誰かに「今朝はちょっといい話が読めた」と思ってもらえたら、もって瞑すべし。

「飲みながら何度も聞かされた」と言う後輩諸君、お気の毒さま≫

 

 退職の挨拶にしては、我ながら人をバカにしたようなスットボケタ文章だ。

その10年以上前になるが、鉄道の生き字引みたいな元NHK職員に取材した時のこと。「これは治五郎さん(ではなく本名)が書いた記事でしょう」「えっ? ああ、署名があるから思い出した。ずいぶん前に書いた昔の文部省唱歌の話ですね」

「先日、100歳近い母が死にまして遺品を整理していたら、新聞記事の切り抜きを見つけました。それを読んだ母が自分で描いたらしい、幼児のような絵も一緒です」

あゝ、そういう読者もいたのか! (もって瞑すべし)

治五郎の(老人性)シミが醜く浮き出たコメカミを、感涙がしとどに濡らしたことでありました。

【しとど】しぼるばかりにぬれる様子。「朝露に袖が ー に濡れる」