去年書いたことを忘れ、40年前に読んだものを思い出す

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年を取ると、タイトルのような現象が頻繁に起きるものだ。当ブログを始めたのは去年の夏だが、その頃に書いたことを詳細には覚えていないので、ときどき読み返さなければ全く同じことをまた書く恐れがある。(幸い、それはまだない)

自分のブログを読み直して面白いかとお尋ねですか? 自分で言っちゃあオシマイだが(誰も言わないので)これが結構、面白いんだよ。役に立つかと言えば全く何の役にも立たない内容だが、役に立つような文章は概して退屈なものだ。惜しむらくは、面白がってくれそうな人が大体「ブログって何だ?」という世代に属していること。

一方では、ワシが学生時代に読んで以後はすっかり忘れていた本をたまたま見つけて読みだすと、止まらなくなるというケースがある。いま読み直しているのは高見順(1907~1965)=写真左=の小説「如何なる星の下に」だ。

戦時中の浅草を舞台に、夢やぶれ落ちぶれて人生の裏街道を行く人々の哀歓を描いているが、〝饒舌体〟と呼ばれた文体に強烈な印象がある。( )やーーを駆使して「話すように書く」文章のお手本とでも言おうか。

では、写真右の女性は誰かというと、タレントの高見恭子(59)。元プロレスラーの国会議員で文科大臣も務めた馳浩(はせ・ひろし)の現夫人である。高見順の娘にしては父と年齢が離れすぎているように感じるだろうが、作家が50を過ぎてから愛人との間に生まれた子なので、ご心配なく。(誰が何を心配するんだ)

文壇にかなりの影響力を持った高見順だが最近、名前があまり聞かれなくなったのは寂しい。治五郎は22歳の時、彼の「昭和文学盛衰記」を卒論のネタに活用させてもらった恩義があるが、今ではなかなか手に入らないので図書館に予約を入れたところだ。