「米朝」問題は原点に立ち返るべし

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現代日本で「米朝」と言えば「アメリカ合衆国朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)」を意味しているが、治五郎の中では、米朝と言えば落語の桂米朝(三代目)(1925~2015)=写真=のことに決まっている。

朝から新聞もテレビも「米朝」「米朝」とうるさいもんだから、久しぶりに米朝の上方古典落語を聞きたくなるのが人情というものだろう。これまで見逃して(というか聞き逃して)いた「天狗裁き」を、You Tubeで聞いた(というか、見た)。

さすがに大御所である。自分が見た夢を覚えていない主人公と、その内容が気になって知りたがる人々の噺なのだが、治五郎には他人事とも思えず、身につまされた。

【つまされる】愛情や同情の念を押さえられず、ひどく心が動かされる。「身にー〔=人の不幸・苦しみなどを他人事とは思えないように感じる〕」

それにひきかえ、米国の大統領や北朝鮮の委員長の言動には、身につまされるような要素が全く何一つも無いではないか。だからワシは「原点に立ち返れ」と、こう申しておるのじゃ。(しかし、落語と外交では原点が違うような気がしないでもない)