「ら抜き言葉」にどう対処するか

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ら抜き言葉】「見れる」「起きれる」「出れる」「食べれる」などのように、可能の意を表わすのに、「見られる」「起きられる」「出られる」「食べられる」の「ら」を脱落させた表現形式。規範を重視する立場からは、誤用とする向きが多い。

治五郎は「規範を重視する立場」で、自分では「ら抜き言葉」を使わないように心掛けているが、相手の「誤用」をいちいち指摘するほどのウルサ型ではない。地下鉄で「出れません」という表示=写真=に遭遇しても「アッ、その『出れません』は『出られません』に直して下さい」とは(言いたくても)言わない。

国語学界の趨勢も、ら抜き言葉に対して「言葉は時代によって変わるもの」と鷹揚なようだ。わが新解さんも「誤用とする向きが多い」などと、あまり深入りしない方針のようだが、さすがに文法上の説明を忘れてはいない。

〔本来、上一段・下一段活用動詞の可能表現の形式は、「動詞未然形+助動詞『られる』」であるが、五段活用動詞の可能動詞形「読める」「飛べる」などからの類推によるものと考えられる〕

しかし動詞の活用なんちゅうものは普通、受験期が終われば忘れるものなので、ら抜き言葉は広がる一方だ。(面白くないが、仕方がない)

面倒なのは、これを新聞やテレビがどう扱うかである。マスコミは「規範を重視する立場」なので、記事や放送で「ら抜き」を使うと苦情が来る。しかし取材相手が口にした言葉を、その場で正すわけにもいかない。NHKのインタビューなどを見ていると、相手が「出れなかった」と言ったのを字幕でさりげなく「出られなかった」に直すなど、姑息な手段で規範を守っているのが痛々しい。

いつまで続けられるんだろう。新聞記者もテレビキャスターも、つい「ら抜き」を使うことが多い。 言葉の世界でも「悪貨は良貨を駆逐する」が避けられないようだ。