誰が「選ぶ」のか。面白くない!(続き)

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「続き」を書く気はなかったんだが、ブログで「ノーベル平和賞の選ばれ方が気に食わん!」とイチャモンをつけた数時間後、今度は「ノーベル文学賞の公表見送り」というニュースがネット上で流れた。

「治五郎日記」は最近、このように類似事件(ではないが)関連事項をめぐって新しいニュースを誘発する傾向が見られるので、数少ない読者の皆さんは、よほど気をつけなければならない。(しかし何にどう気をつければいいんだ)

<【パリ=作田総輝】ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーは4日、今年の文学賞の公表を見送ると発表した。 アカデミーの会員を妻に持つ写真家にセクハラ疑惑が浮上したことを発端に内部対立が激化し、会員が相次いで辞任するなど混乱が続いていた。>(©読売新聞)

よく分からない。アカデミーの女性会員の夫がセクハラ男だと知れれば、その年のノーベル賞は流れちゃうのか。しかし記事の続きをよく読むと、事態はもっと複雑らしい。

過去の日本人受賞者=写真=の思いも複雑だろうが、賞を創設したノーベルさんの思いや、いかに。ワシの正直な感想は次の通りだ。

「自然科学系と違って評価に客観的基準のない平和賞を無くしたら、次は文学賞を無くした方がいいんじゃない?」(昨年の受賞者カズオ・イシグロさん、ごめんね。10年以上前に読んだ「日の名残り」は結構、好きでしてん。内容は忘れかけてるけど)