審判の存在意義

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スポーツにおける「審判」というものの位置が、治五郎にはよく理解できない。柔道=写真①=にしろサッカー=写真②=にしろ、この人たちは何をもって人生の喜びとし、生きがいとしているのであろうか?

本人がオリンピックでメダルを取ったとか、W杯で得点したとかいう経験があるわけではなさそうだ。高給取りが多いとも聞かないし、競技によっては選手と同等の体力が求められる。割が合わないではないか。

しかし、彼らの立ち居振る舞いが実に毅然としていて、自信に満ちている。まるで「私の目に狂いはない」「私自身がルールブックだ」と言わんばかりだ。

とは言え、人間であるからには「間違い」を避けられない。そこで、どの競技でもビデオ判定の導入が進んでいる。サッカーW杯では今回からVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)というものが登場して結構、出番が多い。

VARだなんて、日本の老人にとってはまた一つ、覚えなければならない横文字の略語が増えて難儀なことである。これによって判定が覆るケースが少なくないところを見ると、従来いかに誤審が多かったかが想像できる。

ビデオ判定の普及は喜ばしいことに違いない。ただ、ワシが人類の未来のために心配しているのは、そのうちに失業者が増えるのではないかということだ。

駅の改札が自動化したことによって、切符に鋏を入れる駅員=写真③=という仕事が激減した。今や都会は自動改札、田舎のローカル線は無人駅という二極分裂が日本全土を覆っている。鋏を奪われた駅員はどうすればいいのだ! (ほかの業務があるか)

自動運転が当たり前になれば、運転手という職業人が減るのは目に見えている。スポーツの審判も、ビデオ判定が優先されるようになると、人間は最初から不要という日が来ることにならないか?

炎天下、汗かきベソかき今日も走り回るサッカーの審判諸君を見るにつけ、ワシは彼らの労を多とし、その将来よ安かれと祈り憂えるものである。