抵抗のある祈り、抵抗のない祈り

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 以下に述べることは治五郎という、少し変わった一老人の戯言(たわごと)に過ぎないので、いちいち腹を立てられたり告発されたりしても困る。思想ではなく嗜好に近い問題。「この爺さんは異常だ」と感じたら、明日から読まなければ済む話だ。

死者を悼むとか、平和を祈るとかいう気持ちはワシにもある。ただ、そこに「宗教」が介在してくると強い抵抗を覚える。

日本人の常として、例えば結婚式は神前=写真=で葬式は仏式、クリスマスなどの際はキリスト教徒を装うという、世界でも稀な習慣に、ワシも少年時代はドップリ浸かっていた。が、大人になると年を重ねるにつれ「どうも変だ」と思い始めた。

属する宗教によって掌を合わせたり、両手の指を曲げて組んだり、遠い聖地に向かって平伏したりする。神社仏閣や教会やモスクで毎日、繰り返されている光景で、ワシにも(モスクでの礼拝を除き)経験がある。チベットやモンゴルでは普通の「五体投地」も(行きがかり上)やらざるを得ない状況になって、やったことが何度かある。

「なんでワシが」という違和感は、五体投地に限らない。神社の拝殿の前で柏手(かしわで)を打ち賽銭箱に小銭(紙幣でもいいのだろうが、もったいなくてワシには出来ない)を投げ入れ、合掌する時なども「あゝ、ワシは今、何か自分にウソをついている」という後ろめたさから逃れられない。たまらなく恥ずかしい。

周りの参拝客にそんな様子はうかがえず、老いも若きも「今年一年、家族がみんな健康で過ごせますように」などと真剣に祈っていて、それでスッキリする(らしい)。この光景に抵抗を感じてしまうワシとは一体、何だろうか。

突き詰めると、それは宗教の「所作」にある。墓地で鉦(かね)を鳴らしたり護摩(ごま)を焚いたり、あるいは胸の前で十字を切るという決まり事に、ワシはどうしても馴染めない。そういう所作が出来ない人は、どうすれば「祈る」ことが出来るか。

体を動かさないことだ。「あゝ爺ちゃん、とうとう死んじゃったか。天国や極楽というものは無いけど、まあ長らくお疲れ様でした。良かったね」。何もせず黙って(目をつむるくらいは可)、そう念じればいいのではないか。

てな心情をさらに突き詰めると、ワシが抵抗を感じない「祈り」の淵源は「アニミズム」という一種の原始宗教にたどり着く。

アニミズム】あらゆる現象・事物に霊魂の存在を認める考え方。「精霊崇拝」とも。

既成宗教よりはずっと居心地がいいが、まだまだ解決には遠い。

「この焼酎(四合瓶)の蓋には、いかなる霊魂が宿っているのか?」 ワシには分からんとですよ。