「みやげ」の普遍性に関する考察①

f:id:yanakaan:20180827182641j:plain ©不明

〽 春にゃかならず 親父(おどう)は帰る

  みやげいっぱい ぶらさげてヨ~

作・唄とも吉幾三による名曲「津軽平野」の一節である。雪が降る季節になって、出稼ぎの支度に勤しむ父親への思いを歌っている。東北の農民は貧しかった。

せっかくの稼ぎが酒や博打で消える親父(おどう)もいたと思うが、普通のオドウは春になれば、三人いないと抱えきれない土産を一人で持って=写真=、帰省した。

治五郎の場合は青年時代から、お中元・お歳暮といった「付け届け」どころか、土産を買って帰るということを(ほとんど全く)したことがない。

【付(け)届(け)】義理や謝礼・依頼の気持でする贈り物(を贈ること)。「盆暮れのーを欠かさない」

ワシが「付け届け」をしない理由は明らかだろうが、なぜ「土産」までも嫌なのだろうか。そこを少し掘り下げてみよう。

【土産】㊀外出先から家へ帰る時や人の家を訪問する時などに持っていくちょっとした品物。(以下略)

土産を買うだけの金銭的な余裕がなかったわけではない。持っていけば、相手は喜ぶに決まっている(喜ばないまでも、嫌な気はしないだろう)。そこが、ワシの苦手とするところなのだ。これは「歓心を買う」行為ではないか、と思ってしまう。

【歓心】自分のために相手がよくしてくれたと思って喜ぶ気持。「―を買う〔=気に入られようとする〕」

 何もそこまでひねくれて考えず、もっと単純・素直になれば? とアナタは感じるか。ワシも実は感じるのだ。が性格というものは、どう~~にも変えられない。

ここで話はガラッと変わる。

「みやげいっぱい ぶらさげてヨ~」という昭和30年代ニッポンの心は、いま何という外国に受け継がれているか?

「もちろんニュージーランドです」などと言ったら、当ブログの読者はズッコケルだろう。もちろん、違います。

【ずっこける】〔東京方言〕〔「ずりこける」の変化〕㊀ずり落ちて、ぐあいがおかしくなる。㊁はめをはずす。

(そんな語釈で十分なのか? 新解さん

モンゴルにおける「土産」というものについて、明日は考察を続けてみよう。