「日本人にとって夏目漱石とは?」という難問

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今はモンゴルに帰国中のアルタンから、数日前に聞かれた。彼女は一応「翻訳家」であり、モンゴル語版「こゝろ」などの訳者でもあるので、帰国すると漱石に関してインタビューを受けたりする予定も入っているらしい。

「うーん、漱石は『文豪』の代名詞みたいなもんだが、漱石をよく読んだという日本人が現在では意外に少ない。誰でも知っているのは、学校の教科書で教わった『坊っちゃん』と『吾輩は猫である』ぐらいじゃないかな」

治五郎の説明は、十分とはいえまいが的外れでもないと思う。千円札の肖像=写真=で親しまれたのも1984年から20年間そこそこの話で、2007年以降は野口英世に取って代わられた。そのうち長嶋茂雄安室奈美恵が登場するかもしれない(まさかね)。

「じゃ治五郎にとって夏目漱石とは?」

うーん、難しいなあ。「三四郎」「それから」「門」、どれもそれぞれにいいし「夢十夜」なんかも忘れられない。が「漱石はスゴイ!」というのはワシの場合、すべて内田百閒の受け売りなんじゃよ。

【受け売り】〔自家の製品ではなく、製造元・問屋から仕入れた品を他に売る意〕人の説・意見や人から得た知識を、そのまま自分の説・意見や知識であるかのように述べること。「これはAさんの考えのーだが」

若い百閒が、伊豆で静養中の師・漱石に金を借りに行く。所持金ゼロなのに人力車を雇うところが百閒らしい。宿に着いたら、出てきた漱石は一糸まとわぬスッポンポンだった、とか。

若い百閒が、師が捨てた使用済み原稿用紙をもらってきたら、短い毛がビッシリ植えてある。それは漱石が推敲しながら抜いた鼻毛だった、とか。

もっと若い岡山時代の百閒少年が、憧れの漱石が岡山を通ると聞いて親友と二人、岡山駅のホームで待ち構える。窓越しに血眼で探すが見つからない。ちょっと似た紳士が見えたので「あれだったんだろう」「そういうことにしよう」と決まった、とか。(実はその列車には乗っていなかった)

こんな話なら幾らも知っているが、これが「ワシにとっての夏目漱石」だ。むろん、漱石の作品は何度読んでも感心する部分が多い。古びていないのだ。

最近の人気小説を何百冊も読むより、例えば「夢十夜」をもう一度読む方が、充実した時間が過ごせるように思う。「古典」の力が、そこにある。