なぜ、卵は毎日食べても飽きないのか?

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こういう重要な議題が、ときどき食卓を挟んで論じられることがある。

「小腹が空いたけど、料理らしい料理を作るほどではない。台風が通り過ぎるまで、不要不急の外出は控えろと気象庁も言ってるし」「卵ならあるけど」「それでいいや」

平時でも非常時でも、卵というものは毎日食っても飽きない。昼の麺類にしても、ゆで卵は欠かせない。これは如何なる事情によるのであろうか?

月曜日:目玉焼き=写真左=

火曜日:卵かけご飯

水曜日:親子丼

木曜日:卵焼き=写真右=

金曜日:スクランブルエッグ

という風に、卵を食べない日はほとんどない。卵だけで生きているわけではないが、いくら好きなものでも毎日がサバ味噌煮やウニ・イクラ丼だったら、ウンザリしてくるはずだ。なぜ、卵に限ってはウンザリしないのか? 熟議しても結論は得られなかった。それほど奥の深い問題なのではないかと思う。

卵を食べるたびにワシの脳裏をよぎるのは、それを産んだニワトリさん(♀)の心情である。養鶏場で毎朝、わが子(卵)をすべて〝略取誘拐〟されている。彼(彼女)らは悲しくないのだろうか? 「私がフライドチキンになるのは構いませんが、この子の命だけはお助け下さい。名前は玉子。まだ将来のある身なのです!」と、渾身の抗議をしなくていいのか!

そんな想像をした場合、日本人が発明した最も冷酷で残虐非道な料理は「親子丼」であろう。大昔の中国大陸やローマ帝国に実在した暴君の発想に近い。

実は数日前に「親子丼」を作って食うた。肉は適度に柔らかく、卵のフワトロ感と言いミツバの風味と言い、申し分のない出来栄えだった。

あゝ、罪深き治五郎よ。汝はどこへ行こうとしているのか?