コミュニケーションと侮蔑

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治五郎が幼少の頃、二人いた祖父の一人がこう言ったという話を聞いたことがある。「このワラシぁ、わ~んか昼行灯だいんたな」。津軽弁を標準語に翻訳すると「この子は、少~し昼行灯みたいだな」となる。

【昼行灯】〔昼にともす行灯のように〕ぼんやりしていることが多く、いざという時にあまり役に立ちそうにもない人。〔軽い侮蔑を含意する〕

この祖父(豊太郎という)は商売で苦労した人らしいだけあって、孫を昼の行灯=写真=に譬えるあたりに非凡な眼力が感じられる。

(自分にはコミュニケーション上、一種の障害があるのではないか)という感覚が、ワシには当時からあった。しゃべらない子供だったのだ。成長してから「お前は唖か?」と聞かれたこともある。唖(おし)は、今では使えない差別語である。

【唖】聴覚に障害があるなどして、生まれつき言語活動が出来ない人。おうし。〔侮蔑を含意して用いられることがある〕

 とにかく「侮蔑を含意」する言葉との付き合いが長いと言えるのではないだろうか?

「しゃべる」ことによっては他人とコミュニケーションが取れないので、「書く」ことに逃げ道を発見した。それがワシの人生だったと言えるような気さえする。

似たタイプの人間が、多くはないが少なくもないのではないだろうか。(そういう人を何人か知っているが、なにしろ互いに喋らないから会ってもしようがないのだ)