もはやサルトルは読めません

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モンゴル人妻(モンゴルと人妻の間を区切らないこと)の机に「YГ」と題した自国語の翻訳書が置いてある。YГ(ウグ)は言葉という意味だ。(その程度なら分かるのだ)

原著者は誰かと見たら、Жan-ПoлЬ Capтp とある。ん~っと、これは確か「ジャン=ポール・サルトル」と読むんだった。(そこまでは何とかなるのだ)

しかしページを1枚めくると、そこはもう五里霧中、チンプンカンプンの世界。

フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)=写真=の作品なら、治五郎も20代前半の頃に少し齧った記憶がある。「嘔吐」だったか「存在と無」だったか。しかし正直言って、歯が立たなかった(当時の歯は丈夫だったのだが)。

「実存は本質に先立つ」とか「人間は自由という刑に処せられている」とか、何もそう物事を難しく難しく考えなくてもいいじゃないか。と感じた。ボーヴォワール女史との内縁関係には興味があっても、彼の本業である哲学にはついていけなかったのだ。

「言葉」という著書は、12歳だかまでの思索遍歴を振り返った自伝だそうだ。「面白いのか?」「難しいけど面白いよ」。ワシはもう妻にもついていけないらしい。

世に「鉄は熱いうちに打て」と言う。「熱いうち」を10代、20代と考えれば、65歳の鉄は冷え切っている。どうもならなんのじゃ。邦訳でも歯が立たなかったのに、モンゴル語訳に歯が立つわけがないだろう。(そもそも入れ歯以外の歯がほとんどない)

若者よ、たまにゃ難しい本も読みなさいね。