忘れかけていた言葉「健忘症」

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11歳ほど年下の妹が、某大学で脳神経内科医をしている。先月も「気になる もの忘れ」と題する公開講座の講師を務めたそうだ。

昨夜、治五郎庵に遊びに来た際、その時のレジュメを使って治五郎夫婦に「もの忘れ」の本質及び傾向と対策を講義してくれた。妹よりさらに11歳下の妻も、最近は「人の名前が出てこない」「ものの置いてある場所を忘れる」「何をしに来たか忘れる」「ものの名前が出てこず『あれ』と言うことが増えた」等々の現象に見舞われるケースがあるから、パソコン画面を見ながら受講する表情は真剣にならざるを得ない。

ニューロンニューロンの結合がどうしたとかいう脳の仕組み=写真は頭部MRI=になると、根っからの文系である治五郎の脳はついていけない。今は理解したつもりでも明日になれば、必ず忘れるであろうことは自信を持って断言できるのだ。(エヘン)

えへん 〔いばったり得意になっている時、また、人の注意を引く時などに〕せきばらいのまねをして出す声。

 妹の講義を聞いてワシが最も感心したことは、医療の世界では「健忘」という言葉が今も健在だったという一事に尽きる。「すこやかに忘れる」だよ。罹患者に対して、なんという優しさと思いやりに満ちた表現だろう!

痴呆症という言葉は人の尊厳を傷つけるから、とりあえず何か別の呼称を見つけなければならない、などという料簡の狭さがない。

「おや、初診の方ですね。どうしました?」

Aさん(暗く)「家族みんなから認知症だと言われまして」

Bさん(明るく)「健忘症になりましたあ!」

どっちが幸せだろう。

赤瀬川原平(1937~2014)という作家は、わが「新解さん」を世に出した最大の功労者だが、彼の真価が発揮されたのは名著「老人力」(1998年刊)だと思う。

当時は30代だったと思われる女医が、この本を読んだか読まなかったか。神経内科に携わる者にとって、これは大事な一つの岐路である。確か読んでいたのを兄は「記憶」しているので、彼女の診断には信用を置くことにしている。