去年今年 貫く棒は どこ行った

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<去年今年(こぞことし)貫く棒の如(ごと)きもの>

俳人高浜虚子(1874~1959)=写真=が76歳だかで作った有名な句だ。詩人の故・大岡信は、次のように講釈している。(この場合の「講釈」に悪い意味はない)

<去年今年は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。「貫く棒の如きもの」の強さは大したもので、快作にして怪作というべきか。>

ここで言う「貫く棒」には多少、エロチックな雰囲気が漂っているような気もするが、治五郎の場合は「去年」と「今年」の「つながり」ということに関心を失って久しい。「貫く棒の如きもの」という感覚や概念を、かつては持っていたかもしれないが今は全く失くした、と言い換えてもいいだろう。

大掃除とか除夜の鐘とか初詣とか、まして新年カウントダウンなどに出かける人の気が知れない。壷井栄二十四の瞳」の中で繰り返される<昨日につづく今日であった>という文言が、とてもよく理解できるようになってきた。

 昨夜が大みそかだったかどうかも、どうでもいいというか定かではない。夫婦水入らずで日本酒を飲んだら、元旦から出勤の相手は二日酔いに苦しんでいた。ソルマックを1本、コンビニで買ってきて与えたジゴローは、酒量が足りなくて一人で飲み直した。

昨日今日 貫く棒は 失せにけり