〽 立ち去る者だけが美しい

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中島みゆき「わかれうた」の一節である。「恋の終わりは いつもいつも」に続く歌詞であるからには、きっと「死」や「引退」ではなく「失恋」がテーマだろう。みゆき姐さんが最も得意とする「フラれ女の嘆き節」だ。

が、立ち去った人こそが美しく感じられるという現象は、新聞を読んだりテレビを見たりしていて誰もが実感するのではないだろうか。

 日本のマスコミには妙な風習があって、死んだ人や辞めた人のことを決して悪くは言わない。必ず「惜しい人が去った」ということになるのだ。褒める以外の言葉がない。

3連敗した横綱稀勢の里に対して、前夜までは「見苦しい」「今ごろになってやっと引退か」という辞めろコールが大勢を占めていたが、朝に引退を表明して午後に記者会見が行われると、もらい泣きしながら「本当は偉い横綱だったんだ!」と急に見直したりする。(かく申す治五郎親方も例外ではない)

哲学者の梅原猛(93)とか女優の市原悦子(82)とか、今週は何人もの訃報に接した。梅原先生とは、京都で何時間も話し込んで大いに触発された覚えがあるが、梅原さんや市原さんと親しかった人々が「まさか」と驚いているのを知って、65歳のワシは本当に驚いた。一体いつまで生きて死ねば人は「驚かない」のだろうか。

 治五郎の予感は当たらないので有名だが、今年は元号が替わる4~5月までに「立ち去る者」が増えるのではないだろうか。むろんワシ自身が立ち去る可能性だって、大いにある。(なかなか当たらねえんだ、これが。美しくねえなあ)