「親鷲」と「親鸞」

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自分が目撃したことだと思ってきたが、記憶力が少しアレなので、ひょっとしたらどこかで読むか聞くかしたことを自身の見聞と混同しているかもしれない。

本屋に勢いよく入って来た中年の男が、高齢の店主に叫ぶような口調で聞いた。

吉川英治の『オヤワシ』は置いてませんか?」

「オヤワシ、ですか」

「そう、親鷲」

老店主は 一瞬、頭の中でオ・ヤ・ワ・シという言葉を反芻したようだが、次の瞬間には「はい、いま持ってきます」と言って本棚に向かったので、ワシゃのけぞった。

持ってきたのは案の定、「親鷲」ではなく「親鸞」だった。買いに来た男は「おう、これこれ」と満足そうだ。レジで支払いを済ませた男に、店主が礼を言った。「シンランをお買い上げいただき、ありがとうございます」

若かった治五郎は、この老店主の対応に強い感動を覚えた。

親鷲=写真左=と親鸞=写真右=は似ても似つかないが、ちょっと教養に欠ける客に対して、この老店主は相手のプライドを少しも傷つけることなく、誤りをやんわりと訂正してみせたのだ。どの世界にも〝人物〟は存在するものだ。

喜んで帰る中年男と、何事もなかったような感じで見送る老店主の顔が今でも思い出せる。(ワシが本当に見た光景かどうかは保証しかねるのだが)

霞が関の小役人とは異質な「忖度」の原義が、ここにあるとワシは思うのだ。