「見たい」「食いたい」と「見なきゃ」「食わなきゃ」

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毎日、テレビに映る某A国大統領の頭髪を見ていたらトウモロコシを食いたくなった、という話は先日、書いた。A国の中東部は穀倉地帯で、大統領を次期も続けるためには農家の支持が大切なので、トウモロコシの輸出拡大が現大統領にとっては重要課題らしい。が、極東の隠居老人にとって今はそんなこと、どうでもよろしい。

治五郎の郷土の名産トウモロコシ「嶽(だけ)キミ=現地での正しい発音は dage ksimi=」が〝勘当息子〟のもとにも届いたので、それを齧りながら、今日は「好み」の問題を少し敷衍して考えてみたいと思う。

ふえん【敷衍】〔「敷」は しく、「衍」は広げるの意〕趣旨が徹底するように説明を加えること。「―して述べる」

筆者は、趣旨を徹底したいのであろう。(何の趣旨だ)

思うに、スポーツ番組と食べ物には共通点がある。個人による違いが大きいが、①ぜひ見たい(食べたい)もの、②見たくない(食べたくない)もの、③どちらでもないが身近な人々やマスコミの影響で「見なきゃ(食べなきゃ)」と思わされているもの。 

ワシの場合はどうじゃろう? と静かに内省してみたわけだ。(なにしろ暇なので)

①と②の間に、大きな隔たりはない。①の筆頭は、スポーツなら大相撲、食品ならサバ寿司ということになるだろうが、見たくない(食べたくない)ものは、ほとんど皆無。

バスケットボール=写真左=やニンジン、ピーマン=同右=を積極的に見たい(食べたい)とは思わないが、別に毛嫌いしているわけでもない。本来「好き嫌い」のない性格なのだ。ところが、ここに「時勢」というものが登場するから話は面倒になる。

「爺さんは、八村塁の活躍が何か気に入らないのか」「ラグビーに美しさを感じないのは美意識に欠陥があるからだろう」「パラリンピック関係の番組を見て熱狂・感動できないのは偏見があるからに違いない」。なんだかもう〝非国民〟扱いなのだ。

日本人は、一部の野菜が苦手な子に「食べなきゃ」と強制し続けて今日の「長寿社会」を実現した、という見方もできそうだ。しかし、それが何だろう。

一日に必要な野菜の摂取量は350グラムだと言われる。食卓に、それを一度に並べてもらったら、小食のワシが「俺は馬か?」と哀しくなるような量だ。我が国の健康・長生き信仰も、そろそろ「足るを知る」時期に差し掛かっているのではないでしょうか。