「歩きスマホ」の源流に関する一考察

f:id:yanakaan:20171018153656j:plain

二宮金次郎(尊徳)像=写真=である。日本全国の小学校で、今もよく見かける。昭和初期から戦後にかけて、彼は「勤勉」を象徴する道徳教育上の超売れっ子だった。

よ~く見てごらんなさい。何か連想が働くでしょう。

この姿は、平成時代末期(天皇の余命に関係なく、平成という元号はあと1年半ぐらいで終わることになっている)に生きる我々が、学校の敷地内ではなく通学路や街中で頻繁に出合う小学生の姿とソックリだ。

現代っ子が異なる点は、背中にしょっているのが薪ではなくランドセルであることと、手に持っているのが書物ではなくゲーム機やスマホであることだろう。(と、決めてかかってはいけない。先日は、昔の小説らしい文庫本に熱中しながら歩いている少女がいた。危ないよ、と注意しかかったが、思えば今どき感動的な光景ではある)

若い人間にとって「歩く」のは退屈な行為である。歩きながら何か別なことが出来ないか? と考えるのは当然だろう。それが40~50になると、歩くのが退屈ではなくなる。空を行く雲の様子や、すれ違う老若男女の風体を観察する余裕が生じるからだ。

治五郎ぐらいの年になると(人にもよるが)、そんな余裕が消えて「あそこまで無事に行く方法」に主たる関心が移る。段差で転倒しないか? 蓋の開いたマンホールはないか? 後ろから猛スピードで来る自転車はないか? てなもんや三度笠

二宮金次郎の時代は、いくら読書に熱中しても田んぼに落ちたりドブにはまったりする程度で済んだ。でも今は、車を運転しながらスマホをやるような大人が多い時代。気をつけなきゃいけないよ、久美ちゃん。(久美ちゃんって誰だ)