2019-01-01から1ヶ月間の記事一覧

日本の「元号」は今後、どうなっていくか

実は、もう決まっているらしい。「平成」の次の元号。それを記した1枚の紙が首相官邸だか宮内庁だかの奥深く、厳重な警備のもとで金庫に保存されているのだという、まことしやかな噂も流布している。 お断りしておくが、治五郎は「元号不要」論者である。若…

治五郎親方の大相撲初場所「総評」ならぬ「雑感」

待ちに待った(ではなく、もう来てしまった)千秋楽。午前中からネット中継で観戦していたら、2時過ぎに電話が鳴った。若い女の声だ。 「ナンタラカンタラ(給湯設備会社)の鈴木と申します。今やっている工事に手間取っているので、伺えるのは3時ごろにな…

川の水を汲んできて体を拭く生活

風呂もシャワーもない環境で肉体の清潔を維持するにはどうするか? 任せなさい。近くの川=写真=へ行って水を汲んでくる。大きなヤカン(金属の洗面器でも可)で湯を沸かして適当な温度に薄め、体を拭くのである。川の水が凍っている場合は、割った氷を持ち…

こいつァ春から縁起が悪い

① ② ③ ④ 大相撲初場所の話だ。 初日から3連敗した横綱・稀勢の里が引退を余儀なくされたのも、今は昔。先週の出来事とは思えないほど遠い思い出となった。横綱・鶴竜、大関・栃ノ心も相次いで休場。残りの2大関は勝ち越すのも難しそうで、また白鵬 の独走…

ものごとは鵜呑みにすべからず

【鵜呑み】〔鵜が魚を丸呑みにすることから〕食物の丸呑みや、人の言葉の真偽などをよく考えず、そのまま受け入れる意などを表わす。「―にする」 治五郎が愚考するに、SNS時代に頻発しているネット「炎上」事件の多くは「鵜呑み」に起因する。書く側が、…

〽 立ち去る者だけが美しい

中島みゆき「わかれうた」の一節である。「恋の終わりは いつもいつも」に続く歌詞であるからには、きっと「死」や「引退」ではなく「失恋」がテーマだろう。みゆき姐さんが最も得意とする「フラれ女の嘆き節」だ。 が、立ち去った人こそが美しく感じられる…

どれが誰だか分からない

もう、いちいち絵解き(写真説明)は付けませんよ。 治五郎が若い頃は、カタカナの付く芸名は限られていた。フランク永井とかフランキー堺とかカルーセル麻紀とか。お~、懐かしい。彼(彼女?)は今どうしてるかな。 カタカナ混じりの芸名はアントニオ猪木…

爺さんたちの井戸端会議

【井戸】〔「と」は所の意〕底流する地下水を汲み上げて生活に利用する設備。 【井戸端】井戸のまわり。 ―かいぎ【ー会議】共同井戸のまわりに集まった主婦が、水汲みや洗濯などをしながらする世間話。 すみません、新解さん。江戸・明治時代じゃないんだか…

やはり一日二食以上は体に合わない

実を言うと20代後半から50代の終わりまで、一日三食という生活はほとんど経験していない。現役記者時代の平均的な一日を振り返ってみよう。 昼前を目標に出勤するだろう(出勤も何も、記者クラブや会社のソファで目を覚ますことが多かった)。同僚との付き合…

平成「駆け込み」組(続き)

モンゴルの遊牧民=写真①=のイチンノロブという子は、日本の高校(相撲部が名門)に留学したら「お前の生まれた年はヘイセイ5年だ」と教えられた。のちに与えられた四股名は、本名を少し加工した「逸ノ城」。 もっと前、ウランバートルから来日したダワー…

平成「駆け込み」組

(写真には何の意味もありません。今夜これから作って食べようとしている「白菜と豚バラ肉の重ね蒸し」) 治五郎は「元号」というものに、かなり冷淡(無関心)な方だと思う。西暦以外の数字を覚えなければならないのは、在日外国人にとっては迷惑に違いない…

「無限」の概念

うむ、少し難しい話を始めたな治五郎は。 【無限】その物事の数量・程度などについて、限度があると認めることが出来ない▵様子(こと)。「―の空間 / ーの可能性」↔有限 無限なものの具体例を尋ねられたら、ある人は「宇宙」と答え、ある人は「人間の欲」と…

外国人と一緒に時代劇を見ると疲れます

新作のテレビドラマなら問題はないのだ。登場人物が全員、和服を着て(男は)ちょんまげを結って刀を差している以外、言葉も感覚も現代と大差ない。 厄介なのは、一応ちゃんとした時代考証に基づいて作られた数十年前の映画。「オールキャスト」などと呼ばれ…

そして祖父になる

「断捨離」が一種のブームになるより、ずっと前から断・捨・離を実行してきたのが治五郎だ。「生前葬」という名の宴会を池袋で催して「来年から年賀状やめます」と宣言したのが1997年。計算が合っていれば44歳の時のことだ。 2013年に定年退職した後、治五郎…

去年今年 貫く棒は どこ行った

<去年今年(こぞことし)貫く棒の如(ごと)きもの> 俳人・高浜虚子(1874~1959)=写真=が76歳だかで作った有名な句だ。詩人の故・大岡信は、次のように講釈している。(この場合の「講釈」に悪い意味はない) <去年今年は、昨日が去年で今日は今年と…