犬型の人間が猫型になっていく経緯

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〽 犬は喜び 庭駈けまわり、猫は炬燵で 丸くなる。

これは、犬=写真左=と猫=写真右=の性向を7・7・7・5のリズムで見事に表現した都都逸(じゃなかった、明治時代の文部省唱歌「雪」の一節)である。

治五郎は本来、犬も猫も嫌いではない。牛や馬、羊なども、生きている状態は好きな方だ。(牛・馬・羊は肉の味の方が、もっと好き。人間とは恐ろしい生き物である)

犬のイメージは、健全で前向き。人間(特に飼い主)に対して忠実。献身的で期待を裏切らない。「どこまでもついて行って、お役に立ちます」と考えている。

片や猫のイメージは、わがまま。ぐうたら。マイペースで、何もせずに餌をもらうことに全く引け目を感じていない。「かわいがるのはアンタの勝手」と思っている。

ワシ自身は犬型か猫型か、内省してみよう。

少年時代は、犬型の「いい子」だったと思う。それが、大人になると「世間」というものが分かってくるし、色恋沙汰も経験する。何より「酒」の味を覚えると「いい子」であり続けることは年々、困難になる。今の年齢になると、もう完全な猫型である。

犬に、こんな目で見つめられると、ワシゃつらくなって行き場を失う。いたたまれない気持ちになるのだ。だから中年以降、犬は大の苦手だ。その点、猫はいい。(このアクビ姿を見るがいい。いたたまれない気持ちになんか、全然ならない)

(ハチ公や、ワシはお前の信頼や尊敬に値するような人間じゃないんだ。ブログでは明かせないが、いろいろ良くないこともしてきた。運が悪けりゃ訴えられたり逮捕されたりしていてもおかしくはない。なに、それを聞きたいって? どうしても? じゃ、タマが寝ているうちに、その塀の陰に行って待ってなさい。長い話になるから、オシッコは済ませとくんだよ)