やはり校閲が大事な理由

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台所の本棚(兼食器棚)に、こんな本があった。

「英語対訳 外国人に教える 日本の伝統文化」(はまの出版)

英語を使う機会などゼロの治五郎には〝宝の持ち腐れ〟だが、パラパラと拾い読みすると結構、面白いので熱中させられる。伝統文化とは定番の茶道、生け花、歌舞伎などから神楽、獅子舞=写真左=、猿回し、相撲、忍術=同右=などまで24項目。

<「獅子舞」とは、獅子頭(ししがしら)をかぶって舞うもの。> これの英訳は?

Shishimai is a lion dance with a lion mask. >

それでいいのか? まあ確かに、そう訳すしかないんだろうが一瞬、プロレスのタイガーマスク劇団四季のライオンキングを連想してしまう。

相撲のハッケヨイは<Get moving ! >、ノコッタは<You're still in ! >。そらそうだ。

日本語の部分だけ読んでも、雑学の宝庫みたいな趣があって楽しめる。

しかし、柔道の項を読んでいたら強い違和感を覚えた。

<〝柔道〟は、明治十五(一八八二)年、嘉納治五郎講道館柔道を創始して依頼のもの。> 治五郎が登場するだけに、ワシとしても敏感になるのだ。

<創始して依頼>は<創始して以来>だろう!

こんな、子供でも気づくような誤植(誤変換)がそのまま印刷された出版物は、どんなに内容が優れていても全体が台無しになる。信用の問題だ。

活字文化にとって「校閲」は、サッカーにおけるゴールキーパーと同じ存在なのだ。