井上靖の「人妻」について

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<月は明るかったが、風が強かった。若者が船窓からのぞくたびに、海一面に三角波が立っていた。若者はマンジリともせず、船室に坐っていた。眼は血走り、顔は蒼かった。彼の心の中にも無数の三角波が荒れていた。その三角波の中で二つ年上の人妻の顔が乱れ、形を整え、また乱れた。彼はその人妻があきらめられなかった。遠くからでも、その横顔を垣間見たかった。>

おいおい何だ治五郎、何が始まったんだ? まあ、お静かに。

<朝、徳島に着くと、直ぐ海岸に沿って走る汽車に乗って、Tという町で降りた。派出所で訪ねてようやく目的の家を探し当てた。女は留守だった。父兄会で小学校へ行ったという。>

ここまでが起承転結の起・承で、この後が転・結。井上靖の「人妻」と題する、原稿用紙2枚の超短編である。

<放課後の校庭は静かだった。窓の外に青桐の植っている教室の窓際で、彼女は八歳の女児とともに、受持の先生と対い合って坐っていた。愛児のシツケと教育について語る、女として最も清潔な時間が彼女を取り巻いていた。全く別人のような横顔だった。若者の心から、その時初めて海を渡って運んできたツキ物がおちた。>

あ~、こういう経験は誰にもあるよなあ。(なに、全くない?)

教室の窓際に植わっていたという青桐(アオギリ=写真=)の姿さえ、まざまざと目に浮かぶようではないか。(なに、全く浮かばない? そうですか)

ここでツキ物が落ちたから、若者はストーカーにならずに済んだ。という見方も可能だろう。今どきのツキ物は、本人が逮捕されるまで落ちないのが通例らしい。

14年前に作家の宮本輝が、自分の大好きだと言う16短編を選んだ文春文庫「魂がふるえるとき」に収められている。宮本は、あとがきにこう書いている。

「氏(井上)の才能をもってすれば、千枚の長篇に仕立てるくらいはいとも簡単であろう。けれども、氏は二枚で書いた。抑制と省略といった次元の問題ではない。厖大な心と人生の断面を、果実の一滴におさめたのである」

同感である。厖大な心と人生の断面が、千枚の長篇に仕立てられていたらどうだろう。ハッキリしているのは、今のワシには読み終える体力がないということだ。