メジャーよりマイナー 明より暗 

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生来の無口である。なにしろ生まれた時が仮死状態で、オギャーなどという音はたてずに黙って出てきたという。大過なく成長してからも無口に変わりはなく、ず~っと「寡黙なやつだ」「何を考えてるんだか、よく分からない」と思われてきた節がある。

しかし性格が暗いわけではなく、むしろ明るい方だと自分では思っている。(当ブログの数少ない読者も「明るさに問題はあるが」と条件付きで同意するだろう)

ところが、例えば自分の音楽の好みを顧みた場合にハッキリするのは、タイトルに掲げた通りの〝偏向〟だ。(治五郎の青春時代は、アメリカ伝来のロックやフォークがいわゆるニューミュージックへと移行する頃。もちろん、歌といえば演歌なども含む「流行歌」であって、ポップスなんちゅう言葉は耳慣れなかった)

ライブコンサート=写真=などに行った経験は一度もない。みんなと一緒に盛り上がったり騒いだりすることがどうしても出来ない性格なんですね。

得意ジャンルではないが、演歌を例に取ろうか。「明るい演歌」と「暗い演歌」があって、ワシは前者が大の苦手で後者一辺倒だ。(以下、登場する曲名がピンと来ない世代は、しばらく近所の喫茶店でアイスコーヒーでも飲んでなさい)

演歌は、すべからく「陰陰滅滅」「鬼哭啾啾」を旨とすべし。聞く者が思わず、すすり泣きするようでなければダチカン(愛知・岐阜地方で「ダメだ」という意味の方言)というのがワシの持論だ。最高峰は美空ひばりの「悲しい酒」あたりかな?

八代亜紀の「酒よ」、北原ミレイの「舟歌」、吉幾三の「石狩挽歌」。この辺も泣ける歌で、捨てがたい(少し混線しているようですが、そこは常識に従って整理して下さい)。演歌の神髄は「暗さ」と「苦さ」にある、と治五郎は思い込んでいる。

異を唱える人も多かろう。う~ん、また話が長くなりそうだから、今夜はここまで。(おい若いモン、アイスコーヒーは飲み終わったか? なに、アイスカフェラテにした? 生意気な!)

 

 

NHKテレビでワシが比較的よく見る番組

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それは基本的に、ありません。(1年のうち大相撲が中継される90日間だけは別)

高齢者の中には一日中、朝から晩までNHK総合テレビをつけっ放しにしていて、民放は全く見ないという人が多い、と仄聞する。

「民放はCMが多くて、うるさい」「受信料を払わされている以上、見なきゃモトが取れない」「どこかに置いたリモコンがどうしても見つからない」等々、それぞれに理由があるものと推察される。超の付くような高齢者になると「なに、見なくても国のお咎めはないのか。国民の義務だとばかり思っていた」という人も。(いないか)

治五郎は10年も20年も前から、朝ドラも大河ドラマ紅白歌合戦も見ていない。皆が見るならワシはやめとこうという性格もあるし、連続ドラマは前回のストーリーを覚えていられなくなってきたという問題もある。「この俳優の顔は確か前回も見たぞ。誰の役だっけ?」と思ったら、それが毎回の主役=主人公だったということなどザラだ。

ワイドショーもお笑い番組も、NHKのはめったに見ない。なぜなんだろう?

ひとことで言うと「つまらないから」だが、もう少し掘り下げて考えれば、NHKとワシとの〝体質〟の違いに突き当たる。「予定調和」というものが好きか、嫌いか。

NHK(日本放送協会)はそれが大好きで、ワシの好きな「ハプニング」や「イレギュラー」を極度に嫌っているように思える。街頭からの生中継などでも、あらかじめ誰が何を言うかがキッチリ決められていて、予行演習が行われるに相違ない。

ヘンなオジサンが画面に映ったり、お笑い芸人が不規則発言をしたりしないよう「台本通り」を死守している。そこんところが、つまらない。台本にこだわらないのは「鶴瓶の家族に乾杯」(月曜夜)ぐらいだが、これはナマではなく録画だから、都合の悪い部分は後でいくらでもカットできる。(治五郎も結構、NHKを見てるじゃないか)

「予定調和」主義が最も発揮されるのが、日曜昼の「のど自慢」だ。出場者は予選で決まるが、本選進出の基準は「歌のうまさ」よりも「顔触れのバランス」。鐘をたくさん鳴らせる実力者、超高齢者、格好やパフォーマンスが派手な若者、ちょっとしたエピソードの持ち主など、どれが何パーセントという枠が決まっているらしい。

たまに打ち合わせ内容を忘れ、司会者が助け舟を出してもまだ思い出せない高齢者もいる(そこだけはナマっぽくて面白いといえば面白い)。小田切千アナウンサーの名は伏せるが(伏せてないよ)、これまた演出されたチャラチャラ司会を見ていると、なんだか空しくなってきてチャンネルを替えずにいられない治五郎なのであった。  

 てなわけで、やや視聴率の高いNHK番組があるとしても、ワシはその視聴率に貢献も関与もしていない。比較的よく見る時間帯は、草木も眠る丑三つ時――。

延々と、日本の山々とか世界の街角とか、昭和のSL(蒸気機関車)=写真=などの映像を流していますね。地味~なBGM以外はナレーションなどもない。あれは眠り薬と同じ効果があるので、酒が飲み足りなくて寝苦しい明け方などにワシは〝愛用〟しております。視聴率が低すぎるからといってNHKさん、やめないで下さい。

糖尿病の初級者になら相談に乗れます

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治五郎は、どこに出しても恥ずかしくないレッキとした糖尿病患者である。治療歴は、かれこれ四半世紀にもなんなんとしている。(胸を張って言うことだろうか)

この病気の特徴は、よほど進行しない限りはほとんど自覚症状がないことと、他の病と違って誰も同情してくれない点にある。美食や運動不足の結果だから「贅沢病」=「自己責任」で片付ける世の中の冷たい視線にさらされているのが現実である。

実際には「生活習慣型」の糖尿病にも遺伝その他さまざまな要因があるようだが、非情な世間からは「自業自得だ、ざまあ見ろ」的な目で見られがち。

ワシの場合は、血糖の異常値が30代後半でバレたので薬を飲まされ続けてきた。いまだにインシュリン注射=写真=が必要な段階には立ち至っていない。病の進行状況を初級・中級・上級に区分すれば、中級の中ほどに位置するのではないかと思われる。

しかし、糖尿病は初級→中級→上級の一方通行で、いくら治療したからといって、その逆はありえない。いずれは合併症が命取りになるケースが非常に多く、血管が詰まりやすくなって心臓や脳がやられる可能性も高い。酒やタバコを続ける人は〝愚か者〟。上級者になると、そろそろ失明や片足切断ぐらいは覚悟しなければならなくなる。

治五郎が世話になった医者の中には「ナ、なに? あんた、酒もタバコも全然やめる気ないって?」と目を丸くして驚く人や「バカモン! そりゃ自殺行為だ」と目を三角にして怒る人もいたが・・・まあ、ワシの命はワシのもんじゃけんのう。

 

 

 

一筋縄では行かないモンゴル語

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ご存じ、チンギス・ハーンであります。以前の日本ではジンギスカン(成吉思汗)と呼ぶのが一般的で、羊肉の人気料理を創案した人物として有名だ。(少し違います)

この名前をモンゴル語で表記するには、上のような二つの方法がある。一つは縦書きの伝統的モンゴル文字(右)で、寝癖のついたあご髭みたいだから俗にヒゲ文字という。もう一つは、横書きのロシア式キリル文字(下)である。

似ても似つかぬ両者の字形は、漢字と平仮名の違いなどとは次元が違う。治五郎の場合、キリル文字の方は読めるが、ヒゲ文字には全く歯が立たない(というか、実はもう大半が入れ歯だから立てるべき歯がない)。

モンゴル国1920年代の社会主義革命でソ連(当時)の影響下に入った(というより属国になった)ため、伝統文字を捨ててキリル文字を使う(使わせられる)ようになる。

1990年前後からの自由化で、昔の文字や宗教(チベット仏教)を取り戻そうという機運が高まったのだが、なにしろ70年もたっているので、宗教はともかく文字については時すでに遅し。よほどの高齢者か、意識的に猛勉強した人以外は読み書きできない。

ここで大相撲ファンにクイズを出そう。次の外国人力士の中で、モンゴル古来のヒゲ文字をちゃんと読み書きできる(はずの)人は誰か?(カッコ内は出身国)

白鵬(モンゴル) ②日馬富士(同) ③鶴竜(同) ④蒼国来(中国)

正解は、④なんですよ。中国・内モンゴル自治区出身の蒼国来は、国籍は中国でも民族上は正真正銘のモンゴル人だ(そこが、あの大国の難しいところ)。彼も学校では中国語と漢字(簡体字)を教えられたが、家では古来のモンゴル語で育った。

蒼国来の所属する荒汐部屋の飼い猫「モル」が最近は〝スー女〟たちの人気者で、写真集まで出ているそうだが、モル(モール)はモンゴル語で「猫」の意そのものだ。

いろいろ知ったかぶりを申しました。3横綱の中に万が一「俺は、モンゴル文字をスラスラ読み書きできるよ」という人がいたり、蒼国来関が実は読めなかったりした場合には菓子折りを携えて〝誤報〟の謝罪に伺います。(菓子折りではなく羊の内臓か脳みそを携えたいのですが、なかなか東京では手に入らないのです)

 

 

日本人は愛情をどう伝えるべきか

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英語で「アイ・ラブ・ユー」、ドイツ語で「イヒ・リーベ・ディヒ」、中国語で「ウォー・アイ・ニー」、モンゴル語だと「ビー・チャムド・ハイルタイ」。

外国語を少しでもかじると、人は♂♀を問わずこれを知りたがるようだ。どこの国にも、この表現はあるに違いない。

もう記憶力がアレなので典拠を示せないし、正確な内容をお伝えすることもできないのは残念だが、昔、夏目漱石=写真=が松山の中学だか熊本の高校だかで生意気ざかりの生徒から質問を受けたそうだ。「先生、アイ・ラブ・ユーの日本語訳は?」

漱石先生は一瞬、口ひげをひねったが「そんな表現は、日本語にはない!」と答えた。「じゃ何と訳せばいいんですか?」と生徒。先生いわく「今夜は月がきれいだね、とでも訳しておきなさい」。さすがは漱石だと感心した。

ワシは余計なことを想像する癖があるので、このエピソードを聞きかじった寅さん(車寅次郎)がどんな行動に出るかを想像してみる。憧れのマドンナと並んで夜道を歩くチャンスに恵まれた寅が、意を決して「見てごらん、今夜は月が・・・アレッ?」

この晩は新月で、月は出ていなかった(あるいは満月なのだが突然、雲に隠れてしまった)。似たような経験は、あなたにもあるでしょう。なに、ない? いや、ある。胸に手を当ててよく考えてみなさい。ぜ~ったい、ある! (何をムキになってるんだ)

 

 

「ことわざを超えた金言」第1位

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それはね、「稼ぐに追いつく貧乏神」というのです。

どなたがおっしゃったかと言うと、治五郎が最も強い影響を受け「文章の神様」と崇め奉っている内田百閒先生(1889~1971)=写真=だ。夏目漱石の晩年の弟子で、名文もさることながら〝借金魔〟としても知られた。

ことわざの「稼ぐに追いつく貧乏なし」は、説教臭が鼻に付いてワシゃ好かん。ほとんど「働かざる者、食うべからず」と同義だと思う。ご案内の通り、ジゴローは年齢の離れた妻の労働に依存して生きているので耳が痛い、という事情もある。

どこかの首相が「1億総活躍」などという美名の下、実は「どんなに体力・知力・意欲が衰えても、全国民が年金など当てにしないで死ぬまで働け」と言っているに等しいことを思い合わせるべきではないだろうか。

働けど働けどなお我が暮らし楽にならざり じっと手を見てしまった石川啄木みたいな人は現代でも(いや、現代だからこそ)多いものと思われる。

それが、どうでしょう。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」を「稼ぐに追いつく貧乏神」にすると、「なし」と「神」の差だけで事態は一変する。啄木の深刻な暗さは消え、フ・・・ムフフ、ワハハハハ! と笑いだしたくなるオカシサが現出する。パロディとしても超一流の出来である。そればかりか「貧乏神」という迷惑な神様が、一体どんな形相をして「追いつく」のかまで想像させられて、名状しがたい不気味さと怖さを味わうことになる。

どうです、これが内田百閒の世界。未読の方は今すぐ、本屋か図書館に走りなさい。閉まっていたら「開けてくれ!」と叫びながらガラス戸を叩き続けるのだよ。(やはり、ワシはもう平成の世には受け入れてもらえない存在なのだろうか)

 

「私がやったことに間違いありません」

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国語の問題を一つ。(対象は中3~高1ぐらいかな)

「私がやったことに間違いありません」は、2通りの意味に解釈することが可能です。その違いが分かるよう、2種類の文章に言い換えなさい。

(正解例)・・・A.「それは私がやりました。間違いありません。」 B.「私は慎重な性格なので、間違いは犯しません。」

Bの場合は「私のやったことに間違いありません」と助詞を補うべきだろう。

で、治五郎先生は何を言いたいのか? 取り調べ室の写真(韓国のドラマより)があるから見当がつくだろうと思うが今宵、やり玉に挙げたいのはAの方だ。

TVニュースで、逮捕された被疑者(否認・黙秘を除く)は、判で押したように「私がやったことに間違いありません」と言う(言ったとされる)。ホンマかいな。

「間違いありません」なんて、そんなに上品で育ちのよさそうな犯罪者は、あまりおらんのとちゃうか? 仮に男の名を(不本意ながら)治五郎だとしよう。

刑事「じゃ認めるんだな?」治五郎「るっせーな。ああ、やったよ! やったと言やいいんだろ?」

これが実態だと思うんだが、なぜかニュースでは「私がやったことに間違いありません」となる。

刑事が作成して被疑者に捺印させた型通りの供述調書(の一部)を記者会見で読み上げる警察も警察だが、それをそのまま放送するマスコミもマスコミだと思う。

明日も明後日も、逮捕されて容疑を認めた人は「私がやったことに間違いありません」と言い続けるんだろう。(この予想はたぶん、間違いありません)

 

 

 

 

いつまでもあると思うな親と金

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これに続く言葉が何かあったな。何だっけ? と思う人が意外に多いらしく、ネット上が結構にぎやかだ。

正解は「ないと思うな運と災難」だとされているようだが、治五郎の認識というか記憶では(そこが心配だが)「運と天罰」ではなかっただろうか。

「いつまでもあると思うな親と金」を「ことわざ」と認めている人が大半だが、犬棒かるた=写真=にも入っていないし、ことわざとしては新参者に属すると思う。

この〝ことわざ〟の後半が素晴らしいのは、失敗だらけの自分には運がなかったと実感し嘆いている人をソッと励ましている点と、無事安穏に暮らしている人に「1秒後にはどんな災難に見舞われるか分からんのだぞ、オイ」と警告している点だ。

「ないと思うな」の後が「運と災難」より「運と天罰」の方がいいとワシが思うわけは、天罰という言葉はインパクトが強くて警句としての完成度が高いから。

(ふん、自分に天罰など下るものか)と高を括っているような人(例えばA国のT大統領や、K国のK党委員長)が耳を傾けるべき言葉だと思うのだが、そういう人たちは決して耳を傾けたりしないものだ。これを「馬の耳に念仏」と言う。

犯罪者って、どのくらいいるもんなの?

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前科の有無が話題なのではない。立派に更生した人も(多くはないが)いる。

治五郎は若い頃、毎日のように警察署に寝泊まりした時期がある(容疑者としてではなく新聞記者として)。1本の電車に1000人が乗っているとして、お尋ねの件について内訳を推量してみましょう=写真はラッシュアワーの某駅=。

1000人中、殺人経験者は4人。うち服役を終えたのが2人で、もう1人は「戦時中、大陸で何人も殺した」という爺さん。残る1人は昨夜の事件で逃走中(年齢未詳)だ。

もう面倒になってきたが推量を続けると、窃盗・万引きが141人、私文書偽造が127人、痴漢が69人、詐欺が32人(発覚していないものを含む。あてずっぽうだから、当局に電話して確かめたりしないで下さいね)。

軽犯罪や名誉棄損、著作権侵害なども問題にした場合、清廉潔白な人は1000人中、30人もいるだろうか? かく言うワシも、その30人には入れません(断定)。

質問を寄せた娘さん、満員電車に乗って通勤することが怖くなりませんか? 隣で吊革につかまっている男の人相は常に観察・記憶した方がいいよ。なに「私は結婚詐欺の常習犯で、警察の取り調べには慣れてる」ですって? 恐れ入りました。 

 

「みんなちがって、みんないい」のだけれど・・・

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はい、この人=写真=は童謡詩人の金子みすゞさん(1903~1930)ですね。

 

<わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。>

 

これは、代表作「わたしと小鳥と鈴と」。ものごとを優劣や好悪でとらえるのではなく「ちがう」ことの大切さを考えさせてくれる。治五郎も深い共感を覚えます。

これは人間関係についても言えることで、100人の人がいれば100人それぞれに他とは違う美点・長所がある。ワシは何事も「悪いところ」より「良いところ」に目がいく性分らしく、嫌いな人よりは好きな人の方が断然、多い(食べ物に「好き嫌い」がなく「好き好き」なのも、あるいは関係があるかもしれない)。それで騙されたり損をしたりすることもあるが、別にチッキショーと恨んだり後悔したりしたことはない。

しかし「好き好き」も同性同士なら問題ないが(あるか)、相手が異性だと話が難しくなってくる。「A子さんの性格は申し分ないが、首から上が(下も)ナンだな」とか、「B子ちゃんは素晴らしい容姿なのに、味覚があまりにもアレだ」という風に。

さらに考究するなら「目はナンだが鼻が少しアレだ」「手の指がアレなのに足の指はナニだ」などと、もうナニがナンだか分からなくなってくるのが常人というものだろう。(常人ではない、治五郎だけだ。と、そうおっしゃるか)

遠い昔に「結婚」(一部を除けば一夫一婦)という窮屈な制度が生まれ、配偶者以外の異性にあまり美点や魅力を発見してはイカン! という倫理規制が生じたわけだが、これは「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの思想とは逆ベクトルであって人間の正しい本性とは相容れない。従って「結婚制度」には根本的な無理がある。

・・・てなことをサ、治五郎は30年ほど前から主張してきたのだったが、よんどころなくジゴロとなり果てた現在は、もう何も申しません。