牛と人間との間に横たわるもの
初めてモンゴルの草原でテント生活を始めた日のこと。トイレがないから、取材グループと運転手、通訳ら総がかりで深い穴を掘っていると治五郎の腹具合が「待ったなし」の状態に陥った。360度、見渡す限りの草原で人目を遮るものは何もない。
数メートル先に大きな牛=写真は黒毛和牛=が寝そべっていたので、これ幸いと背後に回った。排泄の快感に浸っている最中に、牛はノッソリと立ち上がって去った。「おい、待て!」という日本語は(モンゴル語も)通じない。悲惨な記憶である。
【牛】耕作などに使われる、重要な家畜。からだが肥大して力が強い。頭に角を二本持つ。乳・肉は食用、うんぬんという新明解国語辞典の語釈は正しい。
が、人間にとって「牛」という動物はそれだけの存在ではない。「暗闇(暗がり)から牛」や「牛に引かれて善光寺参り」の牛を、馬やロバに置き換えることはできない。
内田百閒の短編に「件」いうのがある。人偏に牛で「くだん」。体が牛で顔だけは人間という想像上のケッタイな動物で、未来を予言する能力があることになっている。
百閒が件になった。予言を聞こうと人が集まってくるが、件には何の予言も思い浮かばない。人の数はどんどん増えて、今か今かと固唾をのんで予言を待っている。件は冷や汗タラ~リ。なんという怖さ、切なさ、おかしさであろうか!
件とは逆に、体は人間で頭が牛の形をしている「牛頭(ごず)」というのもあって、これは地獄の番人だとされる。牛と人間との間には何かが横たわっている。その正体が分からないのが、治五郎にはもどかしくてならないのだ。
東京都内で富士山に登った
名山というものは登ったりするものではなく、遠くから仰ぎ見てその姿を愛でるべきものである。治五郎は昔から、そういう穏健な思想を抱いている。
日本人だから富士山=写真左=が嫌いなわけはないが、何合目からにしろ登頂してみようという意欲も体力も、とっくに失せた。(今は高尾山でさえ気が向かない)
富士山は、特に世界遺産になってからは猫も杓子も登りたがるようになった。ワシはブームというものから目を背ける体質が抜けないので、もう意地でも絶対、登らないことに決めている。(登ろうとしても無理なんだってば)
先週、某旅行雑誌(ええい、隠してもしようがない「旅行読売」です)の編集部から取材の依頼(打診)があって、富士山がどうとか言うから断りかけたが、本物の富士山ではなく都内に残る江戸時代の「富士塚」を3か所ほど訪ねてほしいという。
富士信仰になら興味がないではない。いつか駒込界隈を散策していたら、迷い込んだ神社の境内で富士塚に遭遇した。富士山に見立てた人工の塚山なのだが、密教や修験道の怪しい雰囲気が漂い、ひとことで言うと「面妖」。これに登れば富士登頂と同じご利益にあずかれるというので、今も信仰する人が多いんだそうだ。
というわけで昨日は北品川、千駄ヶ谷、護国寺の富士塚を回った=写真右は品川富士の〝登山道〟=。いずれも面妖ぶりは甲乙つけがたい。高いものでも15メートルだから、ワシでも遭難のおそれはない。ただし急傾斜の岩場があるから、よろめいて転落したりすれば救急車の世話になる可能性もゼロではない。
同行した女性フリーカメラマンが、登拝客になったつもりで写真のどこかに(目立たない程度で)写っていてほしいと言う。「右足を一段上の岩に」とか「顔は左の木の方に向けて」とか、注文が多い。ワシも現役記者時代はこういう調子で写真を撮ったものだが、立場が変わるとだんだん不機嫌になってきた。勝手なものである。
護国寺の石段で猫に構っていたら、膝に痛みを感じた。富士塚のせいというより、乗り換え駅が多かったので階段(エスカレーターのない下り)がこたえたようだ。何日間かは尾を引くに違いない。
ご利益などに興味のない不信心者が慣れないことをすると、こういう罰が当たる。
自分が美人だと気づいていない美人はいないか?
即答します。そういう人は、いません。
昔、テレビが普及する前までは、全国各地に「北千住小町」とか「南三陸小町」とか呼ばれる地域限定の美人がいて、争奪戦に敗れた男たちを泣かせた末に豪農のドラ息子に嫁ぎ、平凡な家庭生活を送ったり不幸のどん底に落ちたりしたものだ(と聞く)。
「こまち」というと今は秋田新幹線か秋田産米の銘柄のことだが、元祖は平安歌人の小野小町=写真=だ。楊貴妃やクレオパトラ同様、実際はどんな顔をしていたのかは誰も知らない。が、小野小町の場合は「花の色は移りにけりな」と嘆いてみせたところを見ると、自分が滅多にいない美人だということは十二分に認識していただろう。
平安時代でさえそうなのだから、平成時代においては美人がヒッソリと生きることなど不可能だ。自信と上昇志向のある美人はミス〇〇コンテストや各種オーディションに出るし、その気がなくても渋谷や青山を歩けば芸能プロのスカウトが群がってくる。
朝の連ドラにでも出演が決まれば、即「スター誕生」となる。かくて人気女優が毎年、確実に量産される仕組みになっている。顔と名前を覚えきれる数ではない。不思議なことに、そうして登場する新人女優に〝大根役者〟は少なく、概して演技がうまい。その辺はどうなっているのだろうか。
「自分の美貌に気づいていない女」がいないものか? という願望を抱く男たちは古来、少なくなかった(と推察される)。負け犬の遠吠えに聞こえないこともない。
ところが、これまた不思議なことに、恋人の二股交際や夫の不倫に悩まされる女性というのは大体が美人に属していて、そうでない方に分類される女性は、この種のトラブルとは無縁なようだ。その辺は一体どうなっているのだろうか?
話が佳境に入ってきたが今日は仕事の予定があるので、続きはまた後日。
モンゴル語知らずのモンゴル語講座
日本に住む夫婦の国籍が違うと、どういうことが起きるか。いろ~んなことが起きうるのだが、まず、会話能力の格差が拡大の一途をたどるという現象が生じる。
治五郎の場合に即して考察を進めてみよう。ワシ(日本人)は、過去26年間にモンゴル=写真=へは7~8回行ったが、滞在期間は全部合わせても5か月に満たない。一方、モンゴル人の妻は20代前半で来日して以来、かれこれ20年近くずっと日本で生活してきた。通訳も翻訳も、プロでやっていけるレベルには達しているようだ。
名前を挙げては申し訳ないが(挙げなきゃいいだろ)、ドナルド・キーンさんやアグネス・チャンさん、横綱・日馬富士関よりも日本人に近い自然な日本語を話す。
自分の不勉強を棚に上げるわけではないが(と言いつつ棚に上げるのだが)、彼女の日本語能力が今も日進月歩を遂げ続けているのと対照的に、ワシの片言モンゴル語は退化する一方だ(どうも、日本語でさえ退化し始めている)。
一緒に暮らしてるんなら何でも教えてもらえばいいだろう、と思うでしょうが、そう簡単に事は運ばない。会話の構成要素にレベルの違いがあるのだ。
「この牛肉(あ、見栄を張りました。鳥レバーです)は、うまい! どこで買った?」という程度のモンゴル語なら話せる。しかし「今回の衆議院選挙の結果を見て、何を感じたか。日本の将来はどうあるべきか」というような話は日本語でないと無理だ。
「モンゴル語で『衆議院』を何と言うか。『当落』は。『立憲』は」てなことを、いちいち尋ねていると夫婦の会話は先に進まない。
彼女の名はアルタンツェツェグと言って、キリル文字で Aлtanцэцэг(ローマ字表記に直せば Altantsetseg)と書く。直訳すると「金色の花」だ。このスペリングなども普段は書く必要に迫られないので、ややもすると怪しくなりがち。
ブログ読者のためではなく自分のために、知っているモンゴル語をときどき書き留めておかなければ、と愚考した次第である。(興味のない人は読み飛ばして下さい)
夜が長くなる季節は、どちらかと言えば苦手
「え? どうして。治五郎はんは昔から夜行性で、夜は長い方がいいのでは?」
「いや、そういうもんとは、ちゃいまんねん」
1年というものを区分する境目が幾つかあって、それには「夏至」と「冬至」も含まれる。夏至を過ぎると1日ごとに夜が長くなり、冬至を過ぎると1日ごとに日が長くなるが、ワシは夏至から冬至にかけて活力が衰え、冬至を過ぎると回復に向かうようだ。
朝、目が覚めてもまだ外が暗かったり、日没=写真=と共に午後の5時や6時でもう暗くなったりすると、生活にいろいろ思いがけない支障が生じるのである。
先日は、月曜の朝(と認識していた)6時過ぎに携帯が2度もブルブルした。見ると、土曜日の「サンド会」に出席した河内女(大阪・河内地方出身)からである。「来月、脚が折り畳めるテーブルと保温調理の出来る寸胴鍋を持っていく」とある。ワシのつましい暮らしぶりを見て、無い物を施してくれようという仏心に違いない。
大変ありがたいが、こんな早朝にメールとはまた奇特な人である。(あれ? 昨日は日曜日だったな。投票に行きそびれたか)と思って、郵便受けに新聞を取りに行ったが配達されていない。早朝にしてはバカに通行人が多い。どうも様子が変だ。
月曜の朝ではなく日曜の夕方であることに、やっと気づいた。台風接近の中を投票に出かけ、その労を多として自らビールで乾杯したら、寝込んだらしい。
こういう経験は初めてではない。出張先のホテルで、目が覚めたらチェックアウトの時間を過ぎているので大急ぎで荷物をまとめ、フロントで金を払って外へ飛び出したら、真っ暗だ。夜の10時を朝の10時と間違えたのだ。目の前が真っ暗になった。
フロントに引き返した時の恥ずかしかったこと!
カーテンを閉めたままだったワシも悪いが夜は夜、朝は朝とハッキリ区別できるようにしてもらえないもんだろうか。(お天道様に苦情を言う立場にはないが)
「ブレーキとアクセルを踏み間違えたかもしれないが、よく覚えていない」
先日、吉祥寺で車が暴走して7人だかに怪我を負わせた容疑者の供述である。85歳の弁護士だという。(写真は、単なるイメージ。他意はありません)
死者が出なかったのは幸いだと思うが、この際、事故を起こした老人(及び同年代の人々)に、少し酷だとは思うが申し上げたいことがある。
「あなたは一体、いつまで生きれば満足しますか? 100歳ですか110歳ですか? それとも120歳を超えてギネスブックに載りたい? まだ何か、やり残していることがあるんでしょうか。85歳で吉祥寺駅周辺をドライブするなんて正気の沙汰じゃありませんぜ、悪いけど」
治五郎は今年、64歳と2か月で運転免許証を返上した。ブレーキとアクセルを踏み間違える可能性が出てきて、そうなってまで「経済活動」「社会生活」を営みたくはないと思ったから。(本当は、もう何十年も運転なんかしたことないんだけどね)
「自分はまだまだボケちゃいない」と思い込むこと、それがボケてきた証拠ではないだろうか。事故を起こして人を傷つけ、タイトルのような供述をする段になって初めてボケという現実を突きつけられ、愕然としても手遅れなのである。後悔先に立たず。
野生のゾウは(野良猫もそうだが)、死期が近づくと本能的に察知して行方をくらますという。人間は本能においてそういう「悟り」には程遠いものと見える。
一度でも街中でブレ-キとアクセルを踏み間違えれば、必ずや〝無辜の民〟が犠牲になる。それを承知で、「自分に限っては大丈夫」と運転を続ける。そこんところがワシにはよく理解できんのじゃが。(85歳の弁護士にだけ言っているんじゃないよ)
「歩きスマホ」の源流に関する一考察
二宮金次郎(尊徳)像=写真=である。日本全国の小学校で、今もよく見かける。昭和初期から戦後にかけて、彼は「勤勉」を象徴する道徳教育上の超売れっ子だった。
よ~く見てごらんなさい。何か連想が働くでしょう。
この姿は、平成時代末期(天皇の余命に関係なく、平成という元号はあと1年半ぐらいで終わることになっている)に生きる我々が、学校の敷地内ではなく通学路や街中で頻繁に出合う小学生の姿とソックリだ。
現代っ子が異なる点は、背中にしょっているのが薪ではなくランドセルであることと、手に持っているのが書物ではなくゲーム機やスマホであることだろう。(と、決めてかかってはいけない。先日は、昔の小説らしい文庫本に熱中しながら歩いている少女がいた。危ないよ、と注意しかかったが、思えば今どき感動的な光景ではある)
若い人間にとって「歩く」のは退屈な行為である。歩きながら何か別なことが出来ないか? と考えるのは当然だろう。それが40~50になると、歩くのが退屈ではなくなる。空を行く雲の様子や、すれ違う老若男女の風体を観察する余裕が生じるからだ。
治五郎ぐらいの年になると(人にもよるが)、そんな余裕が消えて「あそこまで無事に行く方法」に主たる関心が移る。段差で転倒しないか? 蓋の開いたマンホールはないか? 後ろから猛スピードで来る自転車はないか? てなもんや三度笠。
二宮金次郎の時代は、いくら読書に熱中しても田んぼに落ちたりドブにはまったりする程度で済んだ。でも今は、車を運転しながらスマホをやるような大人が多い時代。気をつけなきゃいけないよ、久美ちゃん。(久美ちゃんって誰だ)
わが街にないもの
治五郎の隠居所は、荒川区西尾久3丁目にある。JR・私鉄・地下鉄の駅は遠いから、「老体には不便で厳しい環境だな」と思うだろう。ところがドッコイ。
部屋を出ると目の前が都営バスの停留所で、東京駅(丸の内北口)まで乗り換えなしで行ける。引っ越してきて気づいたことだが、異様なまでに便利な立地なのだ。
歩いてどこまで何分かかるかを以下にまとめてみる。
1分以内・・・コンビニ、郵便局、床屋、八百屋、リサイクルショップ
3分以内・・・都電荒川線の駅、スーパー、警察署、中学校(=避難所・投票所)、図書館
5分以内・・・病院、歯科クリニック、消防署、遊園地、年金事務所
さながら小学校低学年の教科書に載っている「まち」のイラストマップを見るようで、死ぬまで遠くへ出かける必要を感じさせない。(道理で歩かなくなるわけだ)
あえて「ないもの」を探すなら大型書店=写真=ぐらいだろうか。新刊書を立ち読みする悪習慣はなくなったが、図書館が近いから不自由はあまり感じない。
望んで住みついた街ではないだけに、妙なスポットに出合った「奇縁」を感じる。
*このブログは隠居老人の備忘録も兼ねているので、昨夜の「サンド会」参加者も実名で記しておく(50音順)。池田美紀、加藤龍勇、小谷みどり、佐久間典子。プライバシー保護への配慮なんかはどうなっているかって? そういうものは、ありません。
レンコンは、どこが旨いか?
「それはね、『穴』です。想像してみなさい。もしも蓮根=写真左=に穴があいていなかったら、あんなもん、輪切りにして食ったって旨くもなんともない」
治五郎が知る限り、こういうことを言った人は我が「百鬼園」こと内田百閒先生が最初である。(なんという慧眼、なんという洞察力!)
「中に何も無いこと、空っぽであること」が肝心なモノは、いくらでも存在する。たとえば、この瓶とグラスね(もう飲んでるのか、外はまだ陽が高いぞ)。器というものは中が「無」「空」だからこそ、そこに水や酒を入れることができるのだ。
「無用の用」という言葉がある。新解さんによれば [普通の意味では役に立たないとされているものが、何かの場合には非常に役に立つということ] だ。
百閒という文学者の発想が非凡なのは、この「役に立たないこと」と「役に立つこと」の間に厳然と横たわる障壁を、ヒラリと飛び越えてみせるところにある。
<阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分でもちろん阿房だなどと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないというわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う>
日本随筆史上に燦然と輝く「阿房(あほう)列車」シリーズは、こう書き出されている。1950年の10月、61歳の百閒は東京発の特急「はと」=写真右=に乗って大阪に向かった。なにしろ鉄道マニア(乗り鉄)の〝元祖〟である。到着すれば、用はないから東京に引き返すだけだ。
この調子で、百閒は北海道を除く全国各地へ「阿房列車」で出かけた。忠実な〝従僕〟たる国鉄職員「ヒマラヤ山系」こと平山三郎とのトボケタ会話に、いわく言い難い味がある。こんな紀行文を、ワシゃ後にも先にも読んだことがない。
「百閒病」に罹患してから36~37年。病歴は、糖尿病のそれよりはるかに長い。百閒病の厄介なところは他人に感染させたくなることだから、皆さん気をつけて下さい。
軽い機敏な仔猫何匹いるか
トマトと新聞紙(しんぶんし)の共通点は何か?
そう、上から読んでも下から読んでも同じという「回文」になっていることだ。小学生の子供がいる人は、作らせてみるといい。「ダンスが済んだ」や「マカオのおかま」ぐらいは、たちどころに作ってみせるだろう。
あの親切な(というか、お節介な)新解さん=新明解国語辞典は、実例を挙げないと気が済まない性格なので「逆さ・田植え歌・たけやぶやけた」を載せている。
言葉遊びというものは、何時間でもタダで楽しめる。治五郎は昔から、趣味を問われれば「言葉遊び」と答えてきた。いい大人がバカバカしい、と感じる人は、ちょっと席を外していて下さい。(ゴルフでもカジノでもやってくればいい)
コピーライターの土屋耕一(1930~2009)という人は、往年のヒット作「おれ、ゴリラ。おれ、景品」「君のひとみは10000ボルト」などで知られるが、達意の回文作者としても鳴った。
「軽い機敏な仔猫何匹いるか」は、彼の傑作の一つ。これを題名にした回文集を出版していて、「新幹線沿線監視(しんかんせんえんせんかんし)」なんて作品もある。読んで感服したワシは、彼の生前に一度〝表敬取材〟に行ったことがある。
「電車の中でもトイレの中でも、回文をひねくり回しています」と語っていた。ドリンク剤だったか焼肉関係だったか失念したが「スタミナみたす」というコピーなども、そんな場所で生まれたという。回文というのは、究極の「遊び」の世界なのだ。
なに、ゴルフ組とカジノ組が帰ってきた? いいよ帰ってこなくても。