どれが誰だか分からない

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 もう、いちいち絵解き(写真説明)は付けませんよ。

治五郎が若い頃は、カタカナの付く芸名は限られていた。フランク永井とかフランキー堺とかカルーセル麻紀とか。お~、懐かしい。彼(彼女?)は今どうしてるかな。

カタカナ混じりの芸名はアントニオ猪木ガッツ石松ポール牧所ジョージなどと増加の一途をたどってマギー司郎イッセー尾形ラサール石井あたりでそろそろ鎮静化するかと思いきや、さにあらず。(表記に誤りがあったら、ご指摘下さい)

テリー伊藤ピエール瀧カンニング竹山はまだしも、最近は漢字抜きのユースケ・サンタマリアリリー・フランキーマツコ・デラックスミッツ・マングローブと際限がなく、どこの国の男なんだか女なんだか、よく分からなくなってきている。

ワシは一体どこへ行けば安寧の地が得られるのか?

最後の進退がかかる初場所で、初日に黒星を喫した稀勢の里みたいな心境に追い詰められるのも当然ではないだろうか。

 

 

 

 

爺さんたちの井戸端会議

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【井戸】〔「と」は所の意〕底流する地下水を汲み上げて生活に利用する設備。

【井戸端】井戸のまわり ―かいぎ【ー会議】共同井戸のまわりに集まった主婦が、水汲みや洗濯などをしながらする世間話。

すみません、新解さん。江戸・明治時代じゃないんだから、語釈が少し古すぎませんか? 今どき、東京で井戸は滅多に見つけられないし、従って井戸端も珍しい存在になった。「井戸端に集まって水汲みや洗濯をする主婦」がいたら、天然記念物だ。

「近所に住む奥さんたちの会話」ぐらいの表現が妥当でなないだろうか。

治五郎庵の近くにMという喫茶店がある。内装=写真=もコーヒー(450円)の味も、なかなか悪くないので、ときどき行く。(妻が部屋の掃除を始めた時など)

 75歳のママが一人でやっていて、客は常連が多い。ママと同じ年ぐらいの爺さんたちだ。治五郎がスポーツ紙を読み比べていると、彼らの話し声が嫌でも耳に入る。

これが結構、やかましい。「俺なんかよ、お前・・・」といった口調で、あまり上品な印象は受けない。話題はと言えば「ラクダの股引を買いに行ったら2980円もした」とか「新聞販売店には質の悪い勧誘員がいる」とか、あとは競馬で損した話などだ。

口角泡を飛ばす感じで何時間でもしゃべっていそうなので、ワシは30分もいたら退散せざるを得ない。

井戸端会議は、今や主婦のものではなく年寄り(♂)のものになったのかもしれない。

 

 

やはり一日二食以上は体に合わない

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 実を言うと20代後半から50代の終わりまで、一日三食という生活はほとんど経験していない。現役記者時代の平均的な一日を振り返ってみよう。

昼前を目標に出勤するだろう(出勤も何も、記者クラブや会社のソファで目を覚ますことが多かった)。同僚との付き合いもあるから近所で蕎麦かラーメンぐらいは食う。すると、もう深夜まで固形物は胃が受け付けない(液体は別)。

日によって、食事どころではない忙しさが続いたり、暇でしようがなかったりする落差は付き物の業界だ。 一人暮らしは割と得意だったので一応、栄養のバランス=左図=は心得ているつもりだが、絵に描いたような定年離婚・再婚後は必然的に食事の回数が増えた。昼にも夜にも固形物を摂取して、胃が悲鳴を上げるようになって久しい。

昨日なんかも、13時から映画「ジャッカルの日」=写真右=を見たのだが、昼食後だった治五郎には「便意との闘い」だった。この映画(1973年)は、ドゴール・仏大統領の暗殺を企む孤独な殺し屋の周到な準備を描いた傑作エンタテインメント。

スト2~3分に凝縮された強烈なスリルを再び味わいたいのに、肝心なシーンの直前にトイレへ行きたくなって往生した。なんとか我慢しきれて個室に駆け込み、無事に用を足した瞬間の充足感と言ったら! ワシには、やはり一日一食が向いている。

 

 

平成「駆け込み」組(続き)

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 モンゴルの遊牧民=写真①=のイチンノロブという子は、日本の高校(相撲部が名門)に留学したら「お前の生まれた年はヘイセイ5年だ」と教えられた。のちに与えられた四股名は、本名を少し加工した「逸ノ城」。

もっと前、ウランバートルから来日したダワージャルガル少年は、体が細くて相手にされなかったが失意の帰国寸前、宮城野部屋に拾われて「自分の生年はショウワ60年」と知った。今の横綱白鵬である。(ショウワ? ヘイセイ? なんだそれは、と彼らは一様に面食らったはずだ)

日本相撲協会のホームページは現在も「元号」一本槍なので、外国人力士は居心地がよくないのではないかと推察される。

治五郎にとって時間というのは「昨日に続く今日」なので、西暦だろうが元号だろうが「区切り」の必要をあまり感じない(動物の感覚に近いかな)。

しかし日本人の場合は、どうも元号によって自分が属する世代の塊(かたまり)を確認したがる傾向があるように思う。(ワシゃ昭和ですけんのう)

たとえば、平成の女子レスリング界に〝君臨〟した吉田沙保里=写真②=の気持ちをおもんぱかるに、「平成時代が終わる前に」という意識がありはしないか。やりたいことは十分やった、という悔いのなさが伝わってくる。元号の功徳とでも言おうか。

相撲? 相撲は大変だぜよ。治五郎親方の直感によれば、今年中に横綱大関の半分が入れ替わるのではないだろうか。この予言が当たるか否かは、年末に(ワシが生きていたら)また語るとしましょう。

平成「駆け込み」組

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(写真には何の意味もありません。今夜これから作って食べようとしている「白菜と豚バラ肉の重ね蒸し」)

治五郎は「元号」というものに、かなり冷淡(無関心)な方だと思う。西暦以外の数字を覚えなければならないのは、在日外国人にとっては迷惑に違いない。

昭和が平成に変わる時は世間が相当ドタバタしたが、今の両陛下は想像力が働くタイプのようで、生前退位改元という妙案を口にして宮内省を慌てさせた。

元号に意味があるとすれば、日本人限定の「帰属意識」ではないだろうか。「ワシゃ昭和生まれじゃけん」「あたしは平成世代だもんね」という、それぞれが属する塊(かたまり)を意識させるのが「元号」。国際的には何のメリットもないと思う。

 平成の次の元号は何になるか? という議論がネット上で盛んなようだ。明治のM、大正のT、昭和のS、平成のHで始まる漢字は(混乱を避けて)除かれるという。QやPやXも無理だろうから案外、使える字は限られてくる(しかし候補は無限)。

昨年の後半以降は、何事にも「平成最後の」という〝枕詞〟が付く。(フン)

しかし、年が明けたらスポーツ選手や芸能人の引退表明が相次いでいる。彼らに「やめるなら今」と思わせるものが何かありはしないか? 続きは明日以降。

 

 

 

「無限」の概念

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 うむ、少し難しい話を始めたな治五郎は。

【無限】その物事の数量・程度などについて、限度があると認めることが出来ない▵様子(こと)。「―の空間 / ーの可能性」↔有限

無限なものの具体例を尋ねられたら、ある人は「宇宙」と答え、ある人は「人間の欲」と答えるだろう。どちらも間違いではないが、正解は無限にあるように思う。

若い記者時代に「戦車のキャタピラ」=写真①=と書いたら、デスクが「キャタピラは商標名だから、新聞では使えない」と「無限軌道」に直した。

(なあにが無限軌道だ、キャタピラの方が分かりやすいのに)と反発したものだ。

キャタピラ〔caterpillar=イモムシ〕 普通の車では通れない所でも走れるように、戦車・トラクター・ブルドーザー・雪上車などに取り付けてある無限軌道。〔商標名は、キャタピラー

【無限軌道】前後輪の代りに渡し掛けた鉄製のベルトを回転させ、車体を走行させる装置。また、そのベルト。⇨キャタピラ

キャタピラの説明には無限軌道が必要で、無限軌道の説明にはキャタピラが登場する。この関係もまた一つの「無限」と言える。(「堂々巡り」ともいう)

治五郎庵の大広間(推定6畳)には、モンゴルから送ってもらった絨毯が敷き詰めてある。品質は立派なものだから東京のデパートで買えば相当、値が張るはずだがウランバートルでは驚くような安さで手に入る。蛇の道はへびというではないか。

じゃ【蛇】(大きな)ヘビ。

【ーの道は へび】同類の(悪)者は互いにその社会の事情に通じている。

同類の(悪)者というところは、人が悪くて新解さんらしい。そして、正確だ。

この絨毯は随所に、特徴的な文様=写真②=が幾つも描かれている。これをモンゴル語では「ウルズィー」といって、チベット仏教由来の「吉祥マーク」らしい。バリエーションは無数にあるが要は、始まりも終わりも無い。「無限」なのだ。

紙の輪を一つ捻れば出来る「メビウスの輪」に似ていないこともない。

これは「輪廻転生」という発想に通じているかもしれない。生まれ変わりなど全く信じないワシだが、天体望遠鏡がなくても絨毯のウルズィーを見ていれば「無限の宇宙」を体感できる。これは結構、幸せな境遇だと思えてならないのであります。

 

 

外国人と一緒に時代劇を見ると疲れます

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新作のテレビドラマなら問題はないのだ。登場人物が全員、和服を着て(男は)ちょんまげを結って刀を差している以外、言葉も感覚も現代と大差ない。

厄介なのは、一応ちゃんとした時代考証に基づいて作られた数十年前の映画。「オールキャスト」などと呼ばれて、時々の一流スターが何十人も出演している。何十回も映画化された「忠臣蔵」=写真=の粗筋などは、日本人なら大体は承知している。

ところが、ここに中年のモンゴル女性Aがいるとしよう。日本での暮らしが長くなって日常生活には全く支障がないのだが、忠臣蔵に詳しいというわけにはいかない。

そんな映画を(テレビで)一緒に見ていると、「これは分かんねえだろうなあ」という言葉が頻出する。たとえばジョウダイガロウね。

じょうだい【城代】㊀主君に代わって城を守った武士。㊁江戸時代、国持ち大名の留守中、一切の政務をつかさどった家老。城代家老

大石内蔵助の立場を知るには欠かせないキーワードだが、その意味を問われれば「参勤交代」に触れざるを得ず、いちいち説明していると、あっという間に「松の廊下」どころか「討ち入り」のシーンになってしまうだろう。

「そこもとって?」「あなた」「それがしって?」「わたくし」

この程度なら鑑賞中に即答できるんだが、歴史用語をひとことで説明できないもどかしさによって、己の不勉強を思い知らされる。いやあ、これは疲れますよ。

 

 

そして祖父になる

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 「断捨離」が一種のブームになるより、ずっと前から断・捨・離を実行してきたのが治五郎だ。「生前葬」という名の宴会を池袋で催して「来年から年賀状やめます」と宣言したのが1997年。計算が合っていれば44歳の時のことだ。

2013年に定年退職した後、治五郎がどこでどうしているかを知る人は、極めて少ない。しかし人間、すべてを断ち切ることは難しいもので、居所を知る人から今でも年賀状が届くことがあるのは避けられない。

息子の妻からの賀状によって、数か月後には治五郎にも孫が生まれる予定であることが分かった。大相撲で言えば夏場所が始まるより前の話になるだろう。

そして父になる」という映画(是枝裕和監督、2013年)=写真=は、わが子が実は他人の子であることを知った2組の夫婦の葛藤を描いた問題作だが、いろいろな葛藤を経験してきた治五郎も「そして祖父になる」わけだ。う~む。

 

 

去年今年 貫く棒は どこ行った

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<去年今年(こぞことし)貫く棒の如(ごと)きもの>

俳人高浜虚子(1874~1959)=写真=が76歳だかで作った有名な句だ。詩人の故・大岡信は、次のように講釈している。(この場合の「講釈」に悪い意味はない)

<去年今年は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。「貫く棒の如きもの」の強さは大したもので、快作にして怪作というべきか。>

ここで言う「貫く棒」には多少、エロチックな雰囲気が漂っているような気もするが、治五郎の場合は「去年」と「今年」の「つながり」ということに関心を失って久しい。「貫く棒の如きもの」という感覚や概念を、かつては持っていたかもしれないが今は全く失くした、と言い換えてもいいだろう。

大掃除とか除夜の鐘とか初詣とか、まして新年カウントダウンなどに出かける人の気が知れない。壷井栄二十四の瞳」の中で繰り返される<昨日につづく今日であった>という文言が、とてもよく理解できるようになってきた。

 昨夜が大みそかだったかどうかも、どうでもいいというか定かではない。夫婦水入らずで日本酒を飲んだら、元旦から出勤の相手は二日酔いに苦しんでいた。ソルマックを1本、コンビニで買ってきて与えたジゴローは、酒量が足りなくて一人で飲み直した。

昨日今日 貫く棒は 失せにけり

もしも高倉健がプレゼンをやったら

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ダメでしょう、それは。

「不器用な男じゃけん、うまく言えんとですが・・・」そこで急に笑顔に転じ、身振り手振りを交えながら、立て板に水のような英語で「今回、わが社が開発した商品は世界のどこに出しても恥ずかしくない傑作でございまして」

やはり、ダメでしょう。いや、稀代の俳優であるからには、そのくらい演じるかもしれんが、やはりダメじゃないでしょうか。新商品が売れるとは思えんとですよ。

日本の男は、何よりも「巧言令色」を恥ずべきこととしてきた。

【巧言令色】相手に気に入られようと、口先だけうまいことを言ったり にこにこして見せたり すること。

 今や、そんな風潮は全く廃れた。国際社会で生き延びるには、謙遜ではなく自己PR、無口ではなく雄弁・おしゃべりでなければならない。健さん受難の時代と言える。

スポーツ界でも、ぶっきらぼうで無愛想な選手はマスコミに好かれない。つい最近、引退を表明したサッカーの小笠原満男(39)(大船渡市出身、鹿島アントラーズ)について、スポーツ報知で長年担当した記者が、こう回想している。

「まともな取材が出来るようになるまで1年半、無駄話につきあってくれるようになるまで6年、愚痴を聞かせてもらえるまでは14年かかった」

治五郎はこういう男が好きなのだが、今の日本では皆が「プレゼンテーションの上手な人」を目指しているように思われてならない。次代の高倉健は現われるだろうか?