それぞれの断捨離 ~高齢者と同窓会~

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この春は、妙~に同窓会のお誘いが多い。3月に田舎で高校の同窓会があって、これには行けなかったが、今月は読売の同期会(いわゆる「花の昭和51年組」=全く客観性のない美称)、来月は大学時代の同窓会という具合に目白押しである。

なぜ今春に集中したのかと考えたら、65歳まで働いた元気者も退職を迎えて「引退」の2文字に直面しているからだということに思い至った。

治五郎は大学に入るのに一浪したが、早生まれ(3月)ではあるし、同期生全体の中では「真ん中」か「やや若い」というポジションにいる。

60代半ばから後半にかけての世代は、いわゆる「団塊の世代」とは数年のズレがあり、少年時代のヒーロー名にちなんで「月光仮面世代」と呼ばれている(呼んでるのは多分ワシだけ)。

現在の境遇は多種多様で、皆が一堂に会するのはなかなか容易ではないのだが、その労をいとわない奇特な人が必ずどこかに存在するものだ。頭が下がる。

【奇特】志が深く、普通一般の人には行ないがたい事を進んでする様子。「世の中にはーな人もいるものだ」〔古くは「きどく」〕

私見だが、奇特な人の名字にはTが付く。竹内とか、高岡とか。

 快く幹事を引き受けてくれる彼らのお陰で、10年も20年も会っていない故旧の近況を伝え聞くことも出来る。「もう同期会には出ないつもり」という人や「メールアドレスは持たないことにした」という人もいるようだ。〝断捨離〟である。

うらやましいような気がする。ワシも思うところがあって早めに田舎へ帰り隠居の身になったのだが、わけあって東京に舞い戻った。 もう人前に出るのは億劫だ。

しかし、同窓会の案内が届くと「あの男、(お互い様だが)どんなジジイになっているんだろうか」という好奇心に勝てず、つい「出席します」と返信してしまう。なかなか悟りが開けないのである。

連休に飽きた? ワシゃそんなことないよ。

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初の10連休だとかいう大型ゴールデンウイークも、最終日。「また明日から仕事か」とゲンナリしている人が多いことだろうし、「連休には飽きたからホッとしている」という人も少なくないだろう。しかし、10連休ぐらいで飽きるようじゃ、甘い甘い。

治五郎なんかアンタ、6年前に60歳の誕生日を以て定年退職して以来、50連休や100連休は当たり前で、去年などは365連休の偉業を成し遂げた。〝連休の達人〟である。

同類の高齢者は増える一方だからテレビ各局も心得たもので、皇室の翼賛ニュースや人気芸人のバラエティー番組だけではなく、かつては誰もが親しんだ映画・ドラマ・ドキュメンタリー・歌番組などを流す。何度目の再放送になるやら。

 局側からすると高視聴率は稼げないが制作費は要らないし、見る側からすれば「懐かしい」だけで内容は忘却の彼方にあるのだが、つい見てしまうという原理が働く。

ワシがつい見てしまったのは、アジアの歌姫と呼ばれたテレサ・テン(1953~95)=写真=のドキュメント。生存中は別にファンでもなかったが、今の妻(モンゴル人)に触発されて見る(聴く)ようになってから、見直す(聴き直す)ようになったのだ。

80年代のヒット曲は、ほとんどが荒木とよひさ(詞)と三木たかし(曲)のコンビによる作品。「つぐない」とか「愛人」とか、子供の教育上あまりよろしくない歌詞なのではないか、と感じていたが、それは治五郎の浅見によるものだった。

〽 だから お願い そばにおいてね 今は あなたしか 愛せない

時の流れに身をまかせ」の中に出てくる「あなた」は、特定の異性ではなく職業として選ぶ「歌」の意だったという。身辺事情に悩んでいたテレサと、それを呑み込んだ上で作詞した荒木。「あ、これは名曲だわなあ」と今さらながら感心した。

テレサ・テンはワシより30日ほど前に生まれた〝お姉さん〟だが、気管支喘息だかのため42歳で亡くなった。その命日が5月8日だったというので、今ごろまた再放送となったわけだ。彼女の波乱の人生を知るにつけ、ダラダラと66まで生きてしまったワシの実感は「理不尽」に尽きるのです。

 

上には上がある〝オノマトペ〟③

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太宰治津軽」の冒頭に、有名な「津軽の雪」が載っている。

こな雪 つぶ雪 わた雪 みず雪 かた雪 ざらめ雪 こおり雪 (東奥年鑑より)

東奥(とうおう)は、東奥日報という地元の最有力紙(通称トーニッポ)。青森県内では今も読売や朝日の追随を許さぬシェアを保っている。まあ、それはどうでもいい。

 トーニッポの年鑑から太宰が引用した〝七つの雪〟は、積もった雪の形状を表したものであって、現に降っている雪の姿を分類したものではない、というのが通説らしい。

雪の降り方(音)を表現したオノマトペはあるだろうか? 〽雪やこんこのコンコとか、シンシン(深々)ぐらいしか思い浮かばないのが普通ではないだろうか。

<太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ>の三好達治でさえ「う~ん」と考え込むのではないだろうか。

しかし、降る雪の音を表現する言葉が本当にないかというと、あるんだよ、これが。

ものすごい勢いで雪が降り続き、災害になりかねないという恐怖感を人が抱くような場合、津軽人は「ノッツノツ」または「ノンノ」という表現を用いる。

「ほろ~、ノッツノツど降ってきたや」「ノンノど降ってらきゃ」

 この怖さは、現地で経験した者でなければピンと来ないだろう。しかし治五郎が最も驚き、かつ強い感動を覚えたのは、次のオノマトペ津軽限定版)である。

<プファラッ(と)>

例えば真冬の晴れた朝、外に出て深呼吸なんかしている時に、ひとひらの雪が舞い降りてきて、鼻の頭(またはホッペタ)に乗っかる。次の瞬間には溶けて消える、はかない雪片である。この状況を「雪(ゆぎ)がプファラッと鼻さ乗ったおん」と言う。

「プファラッと」にはその雪片の軽さはもちろん、鼻先が感じた冷たさと心が感じた温かさ、はかなさ、いとおしさなどが見事に表現されていると思う。

いやあ人間、どんなに表現力があっても土地土地のオノマトペには敵いませんて。

 

上には上がある〝オノマトペ〟②

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 忘れないうちに、きのう写真を掲げた「毛布」の意味を記しておかなければならない。なにしろ一夜にして平成時代が「昔」の話ということになってしまったので。

毛布を二つに折り(折りたくなきゃ折らなくてもいいが)両端を手で持ってホコリを払う時に、毛布はどんな音をたてるか。バタバタ? ちょっと違うでしょう。

治五郎が少年期の大半(と老年期の4年間)を過ごした青森県津軽地方に、次のような擬音語が存在することに、ワシはかねがね敬服しておった。

バホラバホラ(またはバフラバフラ)

「わい、人の近ぐで毛布ばバホラバホラどほろごるなじゃ!」

こうなると津軽弁講座も上級編なので、またの機会に譲るが「ほろごる」は、ゴミやチリを払い落とす動作を表す動詞である。(「近く」→「近ぐ」などは単なる訛り)

バホラバホラという、よそにはない擬音語。標準語=共通語とのニュアンスによって、地方人は〝遥かなる山の呼び声〟に目覚めるのだ。偉大なりオノマトペ

どうも積み残しが出るな。雪=写真=の話はどうするんだ? (また今度ね)

上には上がある〝オノマトペ〟①

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学生さんだろうか。これまで聞いたこともなかった「オノマトペ」という言葉の意味を調べてみたのだと言う。

オノマトペという言葉の意味は、擬音語や擬態語のことを意味する言葉です。擬音語とは、物や生き物が発する音や声を、文字にした言葉のこと。そして、擬態語とは、心で思っていることや状態など、実際は音のしないことを、文字にした言葉のことです。(以下略)>

はい、一応 よく出来ました(言葉の重複が目立つが)。治五郎も、オノマトペに関心を抱いたのは確か大学時代だ。井上ひさしあたりの影響ではないかと思う。

かさこそ 枯れ葉を踏んだり 薄い紙などが軽く触れ合ったりする時に、かすかな乾いた音を立てる様子。

新解さんの精緻な語釈(下線部)もさることながら、そもそも「かさこそ」という擬音は、どこのどなたが発見して文字化したのだろう。

あの音は「かさこそ」としか表現できないので「よくぞ日本に生まれけり!」と治五郎などの老人は勝手に感動するわけだが、それでいいのだろうか。

しとしと 雨が静かに降る様子。

これをモンゴルでは「cap caр(サルサル)」とか「шир шир(シルシル)」と表現するらしいが、他の百数十か国ではどうなっているのだろう。多分、それぞれに独特のオノマトペを持っているに違いない。

思うに「コケコッコー」と「クックドゥードゥルドゥー」の違い同様、人の耳が認識する音に優劣は存在しない。長い歴史と民族が「これだ」と決めるものであって、〝オノマトペ五輪〟の開催は不可能なのではあるまいか。

「平成最後の一日」と「令和最初の一日」の境目でマスコミが大騒ぎしている今宵。外はシトシトと雨が降り続いている。大した感慨も覚えない治五郎は、心静かにオノマトペの奥深さに思いを致しているのであった。

(写真は、毛布。これとオノマトペにどんな関係があるかは、元号が改まった明朝以降の話になる)

 

 

新生児の命名に関する私見

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太陽の塔」=写真左=と、作者の岡本太郎=同右=。タイトルと何の関係があるのかって? 何もありません。

治五郎が「お爺さん」から「お祖父さん」になったという話をした。よく「孫は子供より可愛い」というけれど、それは(ワシが生き永らえたとして)まだ先のことだ。

子供の名前は、他人に相談したり占いや字画に頼ったりするものではなく、生んだ親がそれぞれ独自の価値観に従って決めるべきものだと思う。

若い頃から、頑迷固陋だった治五郎には「長男は〇太郎、女子は〇子」という固定観念があって、それを強引に実践した。もちろん昭和の時代だ。名付けられた本人が迷惑を被ったかどうか、それは親の知るところではない。

あれから30~40年たって、命名事情は一変した。太郎の付く少年も、子の付く少女も、今や珍しい存在になってきている。どこの国の男なんだか女なんだか、そもそも人名漢字の読み方を定めた法律が日本国には存在しないから、小学校の先生なんかは最初の授業で困惑するだろう。

初孫の命名について、治五郎じいさんは何の指示もアドバイスもしなかった。内心、新元号に便乗した「令」は使ってほしくない等々、いろいろ言いたいことはあったが。

結果を聞いたら「花乃子(かのこ)」だというので心底、ホッとした。桜の季節に生まれた花乃子。ありふれていなくて、かと言って奇をてらっているわけでもない。なかなか、いい名前なのではないか。(すでに爺馬鹿?)

ところで、上掲の写真は何なのかって? そこでんがな。

「芸術は、爆発だ!」と叫んだ岡本太郎の芸術が、ワシにはよく理解できないのだが、縄文・東北・沖縄などに関する彼の著作には目を見張るべきものがある。

彼の母親が作家「岡本かの子」。女で「かのこ」と言えば、まず、この人を思い浮かべる読書人が多いのではないだろうか。(いやスゴイ作家だったのだ)

 今、岡本かの子の短編「鮨」を読み返しているところだが、新生児・花乃子の両親にも一度は読んでみてほしいな。

おじいさん 🈩と、おじいさん 🈔

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新解さんで「おじいさん」の項を読んでみよう。

おじいさん幼児語「じじ」「じい」に基づく「おじいさま」の口語形。口頭語形は「おじいちゃん」〕↔おばあさん

ここまでは前置きで、この先が新解さんらしい「読み物」になる。

🈩【御祖父さん】「祖父」の尊敬語。自分の祖父▵に呼びかける(を指して言う)語。また、相手や、話題にしている第三者の祖父を指して言う。🈔【御爺さん】親族関係にない年取った男性▵に呼びかける(を指して言う)語。例、「昔むかし、あるところにーとおばあさんがいました」

これで十分なのだが、新解さんは語彙によって「運用欄」というのを設けている。

⑴🈩は、他人に対して自分の祖父を言う場合「そふ」が普通だが、親しい間柄では「うちのおじいさん」のように言うこともある。

⑵🈩は、年取った夫婦の間で、妻が夫に呼びかけるのにも用いられる。

⑶🈔は、もう年寄りだと謙遜・自嘲を込めて用いることもある。例、「こんなおじいさんに声をかけていただいて」

新解じいさんは、何をそう謙遜・自嘲しているのであろうか。

実は治五郎も先週までは、🈔の意味でしか「おじいさん」という言葉を使わなかったのだが、さる4月21日(日)の正午過ぎに孫(♀)が生まれた由。統一地方選荒川区議選で1票を投じていた時間帯だ。

これでワシも(Jリーグじゃないが)🈔から🈩に〝昇格〟したのだ。(続きは後日)

暗号のようなメール

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第3土曜の「サンド会」は最近、開店休業状態が続いているので今月は20日がそれだということを失念しかけていた。前日になってO野画伯から銘酒「ささ浪」=写真=の差し入れが届いたのと、谷中庵時代に「いちど会」やサンド会の事務局長をお務めいただいたS井Y子さんが「治五郎庵を初めてお訪ねします」と言ってきたので思い出せた。

浅草方面から<18時を目安に向かいます>というから、妻は部屋の掃除と肴の買い出しに、老夫は山の柴刈りに行って、5時半から今か今かと待つ。あと15~20分かと思われる頃、こんなメールが届いた。

<1行き方が難しい。尾久までバスで行って歩きます。8時半くらいになりそうです。>

えーっ、そりゃないよ。あと2時間近くもどうして過ごせばいいんだ。急に喉が渇き、腹が減ってきた。「ビールぐらいは開けても罰は当たるまい」ということになって、プシュッと缶を開けるのと同時に、ドアがノックされた。

<1行き方が難しい・・・8時半>の1行に、謎を解く鍵は潜んでいた。冒頭の<1>は<8時半>の前に直結する。つまり<18時半>のつもりで書かれたものが、ちょっとした手元の狂いで<1>と<8>が離れたのだ。これが外交文書でなくて良かった。

ワタクシに最も向かない仕事

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はい、それはセールスマンです。(写真は、通販のジャパネット)

「見て聞いて、書くこと」以外の能力は、少年時代から全くゼロだった。もしもジャパネットに入社して「この商品をテレビでPRしてみせなさい」と言われ、それをやったら即刻クビだろう。

立て板に水のごとくシャベクリまくって、人心を惑わし自己の利益を得る。そういう熾烈な世界に身を置いたら、ワシは一日も生きてゆけまい。(わが愛する寅さんの「テキヤ」という社会的存在は、その源流である)

 その昔、新聞社に入るのはかなり難しそうだったので、〝滑り止め〟として神田にあった「C書房」という出版社を受験したことがある。中島敦太宰治宮沢賢治の全集を出していて、好感を抱いていたのではないかと思う。

面接が終わって帰ろうとしたら、会社の偉い(らしい)人に呼び止められた。

「キミは編集希望らしいが、営業の方が向いているんじゃないかね」

あ、この会社はダメだと思いましたね。人の本質が見抜けていない。

C書房との縁は、そこで終わった。本命の新聞社に受かった2年後、C書房が倒産したというニュースに接して「やっぱりなあ」と思った。ところがC書房は立派に会社を立て直し、今も優れた本を出し続けている。

あの時、C書房の営業部員になっていたら、ワシの人生はどうなっていたんだろうか。(やっぱりダメだったと思います)

 

人の七回忌に行く資格を自問する

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後輩記者のM本Yから「老婆心ながら」とメールが届いて、共通の先輩であるK原さん(通称Kやん)の七回忌があるのだが、退職後の治五郎が大抵の会社関係者とは音信不通なので、K夫人のH美さんに連絡してあげたら? と言う。

M本Yは、異性だが気の置けない間柄。【気が置けない】気を許してつきあうことが出来る様子だ。

Kやんは敬愛する先輩だったし、癌で亡くなる前週に病床を見舞ったのだが、ワシの方が〝都落ち〟その他で大変ドタバタしていて、葬式にも行けなかったという経緯がある。2013年のことだ。

いろいろ考えた結果、取り急ぎM本Yには以下のように辞意を伝えた。

<親しかった故人中、Kやんは夢に現れる第1位なので心は動かされるのですが、以下の理由で辞退します。

1.自分の生前葬、七回忌ともに済んでおり、今後は死亡を告知する気もない

2.先日、大手町まで行けたのは歩く必要がなかったからで、脚が弱っている

3.「供養なら夢の中で十分」と本人に言われた

以上、真意をH美さんに伝えて下さいますよう。>

ここからがワシの意志の弱いところで、H美さん宛のメールには上の辞退理由を添付したうえで「これはこれで本心なのですが、改まった〝儀式〟でない限り、H美さんやT口さん(Kやんの親友)に再会しておきたいのも事実」と、辞意を半ば翻した。

会場は銀座の某カフェ=写真=だというから、よもや黒の礼服を着て行かなきゃならないということはないと思うが、その辺はまたM本Yにご教示いただくしかない。

完全に「人前から消える」ということの難しさが、日々、身に染みて参ります。