それで「2646」問題はどうなったのか

f:id:yanakaan:20180115210944j:plain

 う~ん、あまり語りたくないなあ。予備校の出席番号が2646(二浪しろ)だった現実に心の傷を受けつつも、4人部屋の寮=写真=に入って勉強生活に入った。

他の3人は、U:福井県出身、東大志望。O:茨城県出身、一橋大志望(ダメなら外語大)。F:福岡県出身、KO大ひとすじの3浪目。とても面白い1年間だった。

勉強というものは、こういう風にしなくては! と、UやOを見て思った。しかしワシときたら数学も理科も20点以上は望めないので、文系の科目でカバーするしかない。

小説を読んだ。新潮文庫山本周五郎シリーズを次々と刊行するもんだから、片っ端から読むしかない。そのうちに日本酒の味を知った。(人間、もうダメです)

UやOが、それとなく忠告してくれるんだが「べらぼうめ、山周を読みだしたら方程式なんか解いてられるかってんだ!」てなもんだ。

それが、どうしてワシだけ第一志望に合格したのか? ワタクシはいまだに納得がいかない。若かった彼らの顔を思い出すにつけ、忸怩たる思いに駆られるのです。

 

 

スー女の造詣、畏るべし

f:id:yanakaan:20180115001955j:plain

大相撲初場所の初日。15日間、全取組を無料で生中継するという「Abema YV」を、朝から見た。案の定、CMが多いが「一日中タダ」となれば不満は言えない。

観客もまばらな序の口からの取組を解説付きで見られるというのは画期的である。

スー女(相撲女子)で知られるタレントの山根千佳(22)=写真=がゲスト解説を担当していたが、相撲に詳しいことと言ったら治五郎ごときの出る幕ではない。

好きな決まり手を聞かれたら「上手出し投げ」だそうだ。上手投げではなく上手出し投げですぜ。ワシには両者の違いがよく分かってない。

期待している若手力士は? の問いには、新十両の水戸龍(錦戸部屋)だか幕下の朝日龍(朝日山部屋)だかと、もう一人、幕下の霧馬山(陸奥部屋)を挙げた。どれもモンゴル出身でワシは注目しているが、霧馬山(ムバサンではなくキリバヤマと読む)とはまたシブイ選択だ。ただならぬ眼力を感じる。

こんなアイドル娘が取材に来たら、大抵の相撲取りは舞い上がるだろう。千佳ちゃんは将来、どこかの有力な相撲部屋の名物女将になるのではないだろうか。

しかし、そういう話をしている場合ではない。

横綱が3人になったが、3人とも安泰とは言い難い。立行司はと言えば、木村庄之助が空位のうえ式守伊之助が例の事件で引退せざるを得ない。代役の勘太夫は初日早々、負けた稀勢の里に軍配を上げてしまって味噌をつけた。

日本の国技は大丈夫か? という点でも今場所はターニング・ポイントだろう。

 

予備校から「二浪」を勧められたらどうする

f:id:yanakaan:20180113012143j:plain

 大学入試センター試験=写真=なんちゅうものを、もちろん治五郎の世代は経験しとらん。が、受験シーズンになると思い出されることがある。

1971年(昭和46年かな)の春、予想していた通り大学受験に失敗した。当時は国立大に「一期校」と「二期校」があって、一期校に落ちたら地元の二期校や私立大を受ける手はあったのだが、予定通り浪人することにした。

私立大は受けなかったのか、とお尋ねですか? よくぞ聞いてくれました。受けたい大学は2、3あったのですが、親に「私大は学問より金儲けが目的」という極度の偏見があったんですね。(分からんでもないが、一度は受験してみたかった)

御茶ノ水にあった(今もあるのか)駿台予備校になんとか合格して1年間、千葉県の船橋だか市川だかにあった学生寮(今はない)に入った。いま思えば当時が学力のピークであって、その後は一貫して「右肩下がり」で今日に至る。

数学というより数字が大の苦手だった18歳の治五郎少年は、例えば4桁の「出席番号」が覚えられない。平安京は「鳴くよウグイス」で794年、鎌倉幕府は「いい国」で1192年というような語呂合わせが必要なのである。

駿台予備校の窓口で、自分の出席番号を知らされて「あ、こりゃダメだ」と思った。

<2646>

「二浪しろ」としか読めないではないか。

その苦境をワシがどうやって乗り越えたか、という話はまた後日。(大相撲初場所が始まっているので朝から結構、忙しいのですよ)

 

 

 

 

 

女湯で溺れかけた経験

 f:id:yanakaan:20180112170137j:plain

C級のニュースというのが毎日、ネット上を駆け巡っている。キチンと活字で印刷されたものを読み直したいと思っても、C級となればなかなか難しい。大概、翌日の新聞にはもう載っていないのだ。

 ヨミウリ・オンラインに次のような記事(©読売新聞)が出ているのを読んだ。

 

<女装し女湯50分、裏声で「女性です」…男逮捕>

 女装して公衆浴場の女湯に侵入したとして、札幌西署は10日、札幌市白石区、パート従業員の男(50)を建造物侵入の疑いで現行犯逮捕した。

 同署の発表と施設側の説明によると、男は10日午後9時頃、同市中央区北5西24の公衆浴場の女湯に侵入した疑い。調べに対し、「男湯は汚く、女湯の方が安らぐから」と供述しているという。

 男は身長約1メートル80で太っており、当時、黒いボブカットのカツラ姿で化粧をしていた。約50分間入浴しており、居合わせた常連客が、不自然に下半身を隠していることを不審に思って施設側に連絡した。男は当初、施設側や駆けつけた署員に対し、裏声で何度も「女性です」と言っていたという。

 

年を取ると、きのう食べたものを忘れる代わりに幼い頃のことを思い出す。治五郎の経験というのは中年を過ぎてからのものではなく、3~4歳の時の記憶である。

当時は女子高生だったと思われる叔母に連れられて、銭湯に行った。当然、入るのは女湯の方だ。彼女が髪を洗うか何かしている時に、一人で広い浴槽に入って遊んでいたら足を滑らせて転んだ。アップアップ! 世間話に熱中しているオバサンたちは、誰も気づいてくれない。

なんとか一命はとりとめたが、この時、ワシは幼心に「女湯は安らぐが、危険だ」ということを直覚的に学習したのである。

お陰で現在に至るまで、札幌のパート従業員の男(50)のような過ちは一度も犯したことがない。(しかし、彼はどういう人間なのだろう。なにしろ身長180センチで太っていて、黒いボブカットのカツラ姿で化粧していたのだ)

 

追記:夜のTVニュースが続報をやっていて、彼の実名や前歴をバラしていたが、こういうのは一種の「病気」というか「障害」だと思われるので、あまり深追いすべきものではないような気もする。

 

卵の大きさに関する考察

f:id:yanakaan:20180111190453j:plain f:id:yanakaan:20180111185632j:plain

中華丼=写真左=に付き物の、ウズラの卵がありますね。あれが少し苦手である。味は別にまずくないし、残すのはもったいないから食べるんだけれども、心のどこかに「私は今、何か正しくないことをしているのではないか」という疑念がよぎるのだ。

この深層心理を突き詰めると、ある幼時体験にたどり着く。7~8歳の頃、西ドイツ(当時)で田舎町の小学校に通っていた。1960年代の初頭だ。

スズメ・シジュウカラ・ヒバリの類だと思うが、家の近くで多くの野鳥が見られ、観察しているうちに熱中した。「将来は鳥類学者になりたい」などと言い出して、図鑑を買ってもらったりした(らしい)。

野原や林の中で、こんな巣=写真右=を見つけることがある。上空で親鳥が必死に警告する声に気づいて、思わず逃げたことが何度かあって、鳥の親が子に注ぐ本能的な愛というのは人間のそれを凌ぐなァ、と思った。(嘘です、そこまでは感じなかった)

今も毎日1個は食べている鶏の卵について、そんな感慨を覚えることはない。牝鶏は養鶏場で毎朝、自分が生んだ子=卵を人間が盗んでいくことに何の怒りも悲しみも感じないんだろうか。(いや、そんなはずはない! のだが・・・)

どこでだったか思い出せないが、何人かでダチョウの卵を食べた経験もある。決して味に問題はないんだが、あの大きさはなあ・・・。見ただけで「もう十分」だ。

何ごとにも「適正規模」があるということだろう。

文豪と変態の境目

f:id:yanakaan:20180111044215j:plainf:id:yanakaan:20180110000615j:plain

          

アンソロジー(詞華集)というものがある。いろんな作家のものの寄せ集めだから全部に期待して読むわけではないのだが、中には「へえ、あの人がこんな作品を書いてたかねえ」と蒙を啓かれることがある。そこから、あまり読んだことのない作家に関心が湧いてくるようなことも、若い頃にはよくあった。

「文豪短編傑作選  BUNGO」(角川文庫)という本を、さっき読み終えた。文豪の短編だという以外に、どういう基準で選ばれたものなんだか、治五郎などには編集部の意図がよく分からない構成になっている。

中高生でも知っている森鷗外の「高瀬舟」や宮沢賢治注文の多い料理店」を今さら載せることもないだろうと思うんだが、ワシも不勉強なので岡本かの子坂口安吾永井荷風らの短編では初めて読む作品が幾つかあった。(読んだかもしれないがとっくに忘れた、というのが大半か)

困惑させられたのが、谷崎潤一郎=写真左=の「富美子の足」。柳亭種彦作、歌川国貞画の草双紙『偐紫田舎源氏』=写真右=の挿絵に触発されたらしいのだが、これは要するに「足フェチ」の実相を描いている。ワッ、いやらしいなァという世界だ。

大谷崎〟がズルいのは、それが自分の病的な性癖であることは伏せて、無名の一書生が尊敬する作家に送ってきた手紙という形を取っていることだ。確かに表現は抜群に上手だ。が、文章がこれほど巧みでなかったら、ただの変態との区別は難しい。

100年前に、よくこんな小説が出版されたもんだと意外な気もする。是が非でも読んでみたいと思う向きは、親や配偶者に知られないように探してみて下さい。

「濃いめ」は変だと思う同志はいないか

f:id:yanakaan:20180109034707j:plain

どちらかといえば長いことを「長め」と言い、量が十分とは言えない状態を「少なめ」と言う。ここまで問題ありませんね?

日本語文法を難しく論じる気はないのだが、これらは「形容詞の語幹+め」で成り立っている。「低め」や「薄め」も同様で、「め」は漢字で書けば「目」だ。

いつもの辞典で「目」を引くと、"eye" という意味の目から始まって実にさまざまな目がある。6種類に大別された「目」の5番目に、いま探している目が載っていた。

(造語)㊀▵一見(比較的に)そういう傾向や性質を持っていることを示す。「長ー・少なー」 うん、これだこれだ。

そこで治五郎の素朴な疑問なのだが、比較的に濃いことを何と言うか? 「濃い」という形容詞の語幹は「こ」だから、濃目(こめ)だろう。

ところが、世間では「濃い目」が常識とされる。なぜだ? 納得行かんぞ。おい責任者、出てこい! と叫びたくなるのはワシだけだろうか。(そうです)

写真は、濃茶。(これで「こいちゃ」と読むらしい。そんなバカな!)

 なぜ「濃い」に限って「濃め」ではなく「濃い目」でなければならないのか。「濃め」だと「米」と紛らわしいから、とでも言うのか。国語学者でなくても中学校の国語教師あたりで、この問題をキッチリと説明してくれる人はいないものだろうか?

晴れと褻(け)

f:id:yanakaan:20180108224804j:plain

「あのね、似合ってませんよ」と口に出して言うほど、治五郎は人が悪くない。一生に一度の成人式=写真=に、親御さんが無理な出費をするのは分かる。

その慣習によって儲けてきた「はれのひ」とかいう会社が、夜逃げをしたんだかなんだか、世間を騒がせている。ワシの場合、成人式なんちゅう「晴れの場」には行かなかった。(行った記憶がないのではなく、行かなかった記憶があるのだ)

20歳の頃から「晴れ」より「褻」が好きだったんだろう。

【褻】「ふだん」の意。改まった場合でないこと。「褻にも晴れにもただ一つ〔=ふだん用も改まった場合用もなく、それしか持ち合わせていないこと〕

(おい新解、おぬし、まるでワシの部屋の小さなクロゼットを隅から隅まで見たような口を利くじゃねえか。ま、おっしゃる通りではありますけどね)

〝めそめそ歌〟の消滅

f:id:yanakaan:20180108024644j:plain

【めそめそ】〔女性や子供などが〕何かというとすぐに涙を見せて、沈んだ調子で泣き続ける様子。「人に隠れてーする/ーする子はきらいだ」

流行歌に関して、治五郎は「めそめそ」系が嫌いではない(むしろ大好き)。「語釈の〔女性や子供〕は余計じゃない? めそめそする男はいないというの? やい!」という、そこの勇ましいオバサンやお姉さん、そういう話はまた後でね。

めそめそ歌の元祖は、大正後期の「船頭小唄」(作詞・野口雨情、作曲・中山晋平)あたりではないだろうか。「俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき・・・」という、あれだ=写真は枯れすすき=。

戦争を挟んで、半世紀後の「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)になると、もっと悲惨な光景が現出する。貧しさに負け、世間に負けて「いっそきれいに死のうか」「力の限り生きたから 未練などないわ」である。

こういうネガティブな歌が消えて無くなったのが「平成」という時代だった、とは言えまいか。豊かになった、というのは物事の一面に過ぎない。

最近のJポップとやらには概して「陰」が感じられない。明るい希望を持って前向きに生きよう、頑張ろうというメッセージばかりだ。聴く若者は、それで満足できるんだろうか。頑張って、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」ぐらい読んでみたらどうだ。

男も女も、布団に潜って(一緒にじゃないよ)ひとりメソメソ泣くのが青春だろう。そういう哀しさの滲む新曲を、ワシゃたまに聞きたいんじゃがのう。

「セクハラ」の定義が変わるんだろうか

f:id:yanakaan:20180106112325j:plain

角界にまた“事件”が起きた。日本相撲協会は5日、立行司式守伊之助(58=宮城野)が、10代の若手行司に対して冬巡業中の12月16日に沖縄・宜野湾市で泥酔し、数回キスして胸を1度触れる行為を行ったと発表した。>(日刊スポーツ)

相撲協会にとって「泣きっ面に蜂」「弱り目に祟り目」とは、このことだ。治五郎は結構、いろんな人を見てきているから伊之助の行為そのものには大して驚かない。どこの組織にも、こういう人はいるし出来事は起きるものだ。

ワシが腑に落ちないのは、この行為をスポーツ各紙が「セクハラ」と表現していることだ。セクハラってなんだっけ? 新解さんに相談したら「性的嫌がらせ。特に職場などで、女性に対して当人がいやがる性的な言葉を男性が口にしたり行動に表したりすること」とある。そうですよね? 男性同士のセクハラって、言葉が変ですよね。

<聴取した際の話として、式守伊之助は「泥酔していたので覚えていない」や「自分は男色の趣味はないので、なぜこのような行為をしたのか分からない」などと述べていることも発表された。>(同)

彼が飲んだのは「泡盛」だった、とも書いてある。ここに至って、ようやく事件の全体像が浮かび上がる。

58歳の立行司は、この年になるまで「酒」というものの本当の怖さを知らずに生きてきたのだろう。そういう人が沖縄やモンゴルに行って蒸留酒を飲むのは無茶である。

立行司が土俵上で腰に脇差(小刀)を差すのは、軍配を差し違えたら切腹するという覚悟を表している。伊之助は何度か差し違えを経験しているが、謝れば済むので脇差を抜いたことは一度もない。ここに相撲界の堕落がありはしないか。

泡盛やウオツカを飲む時は、すべからく脇差を携えるべし。(かえって危ないか)