「しがらみ」といふもの

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しがらみ【柵】Ⓐ打ち並べた くいに、竹や木を横向きにからみつかせて水流をさえぎる仕掛け。「ビーバーは、いわば川の流れにーを設けて巣をつくる」Ⓑその人にまつわりついて離れず、何かにつけて(=心理的に)束縛を受けるもの。「義理のーがあって損な仕事を請け負ってしまった」

 新解さんは、必要とあらばビーバー=写真左=までも動員して言葉の説明に情熱を傾けるのである。現代人の発想にビーバーは登場しないだろう。ⒶよりⒷが先に浮かぶ。

治五郎の場合、しがらみと聞いて原義であるⒶが浮かぶのは、百人一首にある春道列樹(はるみちのつらき)の歌=写真右=の影響だろう。

<山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり>

しがらみの「しが」が地名の志賀(滋賀)に掛けてあるのが古今集らしいといえば古今集らしいが、それほどの名歌とも思えなかった。しかし、大人になり年を重ねるにつれて、しがらみⒷというものの存在が重きを占めてくる。

60代も半ばを過ぎて、長寿・延命第一の現代医療に少なからぬ疑問を感じる己と、入院・手術を拒否できない己は矛盾しているのではないか? と思わぬでもない。その矛盾の矛と盾の真ん中に介在するものが、しがらみⒷなのだった。

まつわりついて離れず、何かにつけて(=心理的に)束縛を受けるもの。

存命中の親きょうだい、懐かしき友人たち(♀を含む)、常識に照らせば迷惑をかけっ放しの妻・・・これらがワシの主たる「しがらみ」だ。もっと詳述したいころだが、とりあえず、孫娘の父=ワシの息子が(確か)不惑の誕生日を迎える明日からは、2度目の入院をして手術台の上で「まな板の上の鯉」と化するしかない治五郎なのであった。

以下の事柄に共通する点を挙げなさい

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 (いちいち付き合わなくていいからね)

イルミネーション=写真=。マスコットキャラクター。世界遺産。カウントダウン。賀詞交換。グルメ。テープカット。表彰台。花火大会。ギネスブック。町おこし。ランキング。グルメ。イベント。賽銭箱。癒し。アイドル。レトロ。タワーマンション人間国宝。お歳暮。寄り添う。絆。おもてなし。リゾート。贈答。宣伝。

誰もが毎日、見たり読んだり聞いたりする言葉だが、それぞれが別々の概念であって関連性は薄い。あえて共通点を探すなら「治五郎が嫌いな(というより苦手な)もの」だろうか。(くだらん。だから「付き合わなくていい」と言ったのに)

これら「苦手なもの」に通底するのは、世をすねた隠居ジジイの視線であろう。

すねる【拗ねる】㊀〔自分の気持が分かってもらえないので〕わざと逆らった態度をとる。「拗ねてばかりいる子供」㊁不平不満・反対の態度を率直に表明することはしないで、何かにつけて意地を張る。「世を―〔=拗ねて、世を捨てた態度をとる〕」

 「寄り添う」や「絆」が含まれていることに疑問を感じる向きがあるかもしれないが、これは言葉そのものに何の責任もない。自然災害が多発するようになった近年、雨後のタケノコみたいな勢いで猫も杓子も安易に口にするのが面白くないのである。

うご【雨後】雨の降ったあと。「ーの たけのこ〔=似たような物が続続と現われ出ることのたとえ)〕

【猫も杓子も】ごくありふれた一般の人びとがそのことにかかわる様子。

「治五郎はんが挙げた言葉は全部、ウチも苦手どすえ」という人が一人でも存在するだろうか(存在しないだろう)。万が一存在したら、委細面談。 

四十腕、五十肩、そして

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「五十肩」について、新解さんが記すところは〔=五十歳を過ぎて、肩の関節が炎症で痛み、運動しにくくなること。『五十腕』とも言う。⇒四十腕〕

「四十腕」は見出し語にもなっている。しじゅううで【四十腕】四十歳ごろになると時どき腕や肩が痛むこと。「―、五十肩」〔四十肩とも言う〕

「四十腕、五十肩」は治五郎も経験した。電車の吊り革につかまるのがつらい、乳幼児や猫を抱き上げることができない、頭をシャンプーで洗えない、果ては尻を拭くのにも難儀する。非常に厄介である。教員などは板書が出来ずに苦労するようだ。背中から肩、胸にかけての嫌~な違和感があって、夜は何度も寝返りを打たないと寝られない。

鎮痛消炎剤=写真は一例=の類をいろいろ試しても、際立った効果はない。数か月から半年ぐらいの間は腕が上がらず「お手上げ」状態だったが、それを過ぎればケロリと治まる。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」で、あの苦しみは久しく忘却の彼方にあった。

それが、昨年十月ごろから再発したらしい。「六十六肩」というのは聞いたことがないけれど、妙に懐かしい症状である。今月下旬には心臓カテーテルで2度目の入院・手術がある。それ自体よりも、身動きできない術後の安静が怖い。六十六肩、恐るべし。

初の入院・手術と「人間の尊厳」その他(3)

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 東京JI大病院(分院)の病室=写真=である。自宅から歩いて10分足らずの距離だが、脚の血流が詰まってきて往復が難儀になっていた。先週(今はもう去年)、カテーテル治療で脚はずいぶん楽になって歩きやすいものの、今度は心臓そのものの血流を良くしないと明日はないという話になって、来週(再来週)にも再入院する。

痛みは大した問題ではないのだが点滴を受け続け、トイレに立てないばかりか身動きもできないという病床の不自由さは、二度と経験したくない。未だ経験したことのない不自由さは何かに似ていると思ったら、それは刑務所(独房)だった。

もちろん治五郎の場合、病院で独房=個室に入れるような身分ではないので、6人部屋に導かれた。こういう〝雑居房〟は一応、カーテンで仕切られているから最低限のプライバシーは保たれているのだが、中には長期入院や入退院を繰り返している〝牢名主〟みたいな剛の者もいて、ベテラン看護師ともツーカーの仲。

夕食後も、いわゆるタメグチでにぎやかな会話が交わされる。聞きたくなくても内容は病室中に筒抜けだ。馴れ馴れしい飲み屋の女将と、おしゃべりな常連客。こういうシチュエーションが、治五郎は極めて苦手である。

年明け早々、またあの空間に身を置くことを思えば気が滅入る。が、そこに微かな懐かしさを感じないこともないのはワシだけだろうか?(ワシだけだろう)

 

初の入院・手術と「人間の尊厳」その他(2)

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たとえば「しびん」というもの=写真=を、治五郎は使った経験がない。

しびん【溲瓶・尿瓶】〔「しゅびん」の変化〕動けない病人や高齢者などが、▵部屋(床)の中で 小便をするのに使う瓶。

手術が近づくと「終わってから6時間以上は、寝返りも打ってはいけません。身動き厳禁」などと雰囲気が物々しくなってきた。しびんの出番なのかと思ったら、今はアレに何かを装着してもらえば、おしっこは何回でも出し放題。ナニの形状や大小に関係なく、尿は一滴も外に漏らすことなく、管を通ってビニール袋に蓄えられる。

3時間を超す手術中に「外れてるんじゃないか」と心配になり、未成年のようにも見える看護師に合図して確かめてもらうと「大丈夫、外れてません。万が一、外れても下が濡れないようになってますから」とのこと。

よく分からないが、こっちは身動き厳禁なので、されるがままだ。白昼、恥ずかしいもヘッタクレもないのである。見栄とか自尊心とか「人間の尊厳」といったものが一瞬にして剥ぎ取られ、患者は生き恥をさらす以外になすすべはない。

老人が弱くて醜い己の肉体を人目にさらし、働いてくれる人の世話に身を委ねる。う~む、1年でも長く生きるというのは、つまりこういうことなのだな。分かっちゃいたが、改めて身に染みた。そういう意味でも、初の入院・手術は貴重な体験だった。

しかし、まだ話は尽きない。残尿感があるとでも言おうか。(続きは、また)

ざんにょう【残尿】排尿し切れずに膀胱に残っている(と感じられる)尿。「―感」

初の入院・手術と「人間の尊厳」その他(1)

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「怖さ3割、楽しみ2割」などと書いてから、わずかに4日。2泊3日の入院を終えて無事に退院した実感は「怖さ3割、後ろめたさと屈辱感が各2割、残りの3割は体の不自由に対する忍耐力」であって、露と消えた「楽しみ」などはゼロである。

「逢ひ見てののちの心に比ぶれば」すなわち「好きな異性(とは書いてないが同性ではなさそう)と一緒に寝られた後の嬉しさに比べたら、そりゃアンタ、うふふ」と詠んだ平安貴族じゃないが、逆の意味で「昔は物を思はざりけり」=「実際に経験する前は何も知らぬに等しかったなぁ」といったココロ。

総じて「貴重な体験」ではあった。まず、カテーテル手術というものを甘く見ていた。部分的に麻酔を用いるから耐え難いほどの苦痛は感じないし、いま何が行われているかをモニターで見ることもできる。が、3時間以上に及ぶ手術が終わった医師の作業衣を見たら返り血だらけで、現行犯逮捕された連続通り魔事件の犯人みたいだ。

「前途あるだろう優秀な医師(複数)が、こんな治五郎のために一心不乱で3時間も」と恐れ入り、つい「生れてすみません」的な気持ちになった。

帰途、病院に近い日本そば屋「朝日屋」でカツ丼=写真=を食った経緯に触れている余裕は、まだない。(疲れているので、続きは明日以降ね)

怖さ3割 楽しみ2割  初の入院・手術を前に

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 治五郎の持病「糖尿病」は、決して完治するということがない。薬によって体をだましだまし、少しでも生き永らえるしかないのである。

「酒や煙草をやめてまで生き永らえたくはない」と公言してきたワシにとって、後悔や反省の余地はない。いつかは入院・手術を強制される日が来るということは昔から承知していたのだが、2019年も押し詰まって、その日が急に訪れたわけだ。

入院といっても2泊3日。手術といったってカテーテルによる「詰まってきた血管の煙突掃除」みたいなもんだから、あまり騒ぐような話ではない。(という認識は甘い)

カテーテル 心臓・尿道・膀胱などの治療に使う、管状の器具。

「いつかは」と覚悟していても、急に「来週」と宣告されれば、やはり(特に〝管状の器具〟などは)コワイ。60代後半の現在に至るまで、ワシは一度も入院・手術を経験したことがない。どうだ結構、珍しい方なんじゃないか?(自慢するな)

怖い反面、この年で迎える「初体験」には素朴な興味(楽しみ)を覚えないでもない。

宴会を開いている場合じゃないのでは? と思うが、21日(土)のサンド会には4人の来客があった(O野画伯と相棒のT中氏、冬でもミニスカートの雅ちゃん、後輩記者の松本Y)。男女6人、煩悩を離れた「清談」に終始したことは言うまでもない。

せいだん【清談】〔金もうけ・暮らしむきの話や人のうわさ話とは関係の無い〕趣味・芸術・学問・信念などについての話。

「怖さ3割、楽しみ2割は分かったが、残り5割の内訳はどういう具合になっているのか」って? いろいろあり過ぎて、とても一言では言えんとですよ。「感慨無量」というやつでしてなあ。

かんがい【感慨】何かのきっかけで過去の経験などを思い出し、昔をなつかしがったり よく▵ここまで(今日まで生きて)来たものだ、などという思いにひたったり すること。「―をいだく / 無限のーを覚える」 ―むりょう 【ー無量】しばらく感慨にひたって、なんにも言えない状態になる様子。感無量。「―な おももち」

〝高齢者ドラマの金字塔〟への道

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「あれ? この俳優、放送中の連続ドラマに昨日も出てなかったっけ?」

治五郎がボケたからではない(ボケてはいるが)。写真の左から順に八千草薫(10月24日没、88歳)、山谷初男(10月31日没、85歳)、梅宮辰夫(12月12日没、81歳)。

高齢化社会の宿命ではあろうが、80代で鬼籍に入る人の数が立て込んできて「すみません、席を少し詰めて下さい」という状態になっているような気がする。

上の3人が出演していたのは、テレビ朝日の名ドラマ「やすらぎの刻」。収録済みのシーンも多いはずで、視聴者は今後も「あれ?」と思わされる機会があるだろう。

それもそのはず、ワシの見るところでは脚本家の倉本聰(84)に最初からそれを狙っていた節がある。彼は、シナリオ人生の〝総決算〟として本作に取り組んでいるらしいので、自身がいつ死んでもいいよう、ドラマの最終話まで(一応)書き終えてから撮影に入ったという。出演した高齢俳優が(己と前後して)1年以内に死ぬという事態は想定内なのだ。「差し違えの覚悟」とでも言おうか。

あっぱれな作家魂であり、随所に遊び心(というか余裕)が感じられる。(そこまで遊んでいいのか? と心配になるシーンも少なくない)

反発する向きもあろうが、ワシは理解者のつもりだ。石坂浩二浅丘ルリ子松原智恵子・・・往年の名優たちが(滑舌が怪しくなりながら)繰り広げる演技には、おかしみと哀しさが滲んでいて「虚実、皮膜の間」を実感できるのだ。諸賢の感想やいかに。

 

「焼き魚」と相撲の「出し投げ」の共通点は何か

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う~ん、今回の設問は結構、難しいかもしれないぞ。(しかしアンタも、よくこんなブログを読んでる暇があるなあ)

写真左は、ぶりの照り焼き。これのどこが一番うまいかというと、私見だが「皮と身の境目」である。「あ、私は魚の皮は苦手なので食べずに捨てます」という人は、話題が尽きるから近所の散歩でもしてきて下さい。

ブリだろうがサケだろうが、焼き魚というものから皮を除去すると価値は半減する。といって、皮だけ食って身を食わないと満足は出来ない。醍醐味は皮と身の間に在るのだけれど、そこに具体的な何が存在するかと言えば、何も無い。その「無い部分」が「うまい」のだ。内田百閒先生の<レンコンの味は『穴』にある>に似ている。

写真右は、相撲の出し投げ(たぶん、朝乃山の上手出し投げ)。例によって、新解さんに相談してみよう。

【出し投げ】〔すもうで〕相手が▵押そう(寄ろう)とした時、自分のからだを開き、▵上手まわし(下手まわし)をつかんで 相手を前のめりにさせて 倒すわざ。それぞれ上手出し投げ・下手出し投げと言う。

 対戦相手からすれば一瞬、目の前の〝目標物〟が消えると同時に投げをくらう。「居なくなる妙技」なのだ。立ち合いの変化などと違って、卑怯な感じのない真っ当な高等技術と言えるだろう。「うまい」のだ。(ちなみに相撲の基礎用語として、上手・下手は「じょうず・へた」ではなく「うわて・したて」と読んで下さい)

さて、焼き魚と出し投げに共通する「うまさ」を突き詰めると「虚実、皮膜の間」という言葉に突き当たった。新解さんで「皮膜」を引いてみる。

ひまく【皮膜】㊀皮膚と、肉をおおう粘膜。「虚実、―の間〔=事実に即き過ぎてもいけないし、虚構が勝ってもいけない芸術作品のデリケートさ〕」㊁皮のような膜。

焼き魚と出し投げには、かくもデリケートな共通点があったのだ。(笑うな)

「㊁皮のような膜」という説明が(「新明解」にしては)やや明解さを欠くが。

馬糞にまつわる清らかな思い出

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ウニの味と言えば断然、ムラサキウニやアカウニではなくバフンウニ=写真=に限る。この問題を少し掘り下げてみたい。(こら逃げるな)

モンゴルの草原で3か月ほど暮らした時、川で歯磨きしていたら何か草みたいなものが歯に挟まった。薬草というかハーブというか、なかなか乙な香りと味がする。

覚えつつあった単語を駆使して、隣で歯を磨いている遊牧民に「この草は何という物であるか」と聞いたら、相手は笑いながら「それは馬のフンである」と教えてくれた。

 あの国は乾燥していて、強い風が吹く。草原に散らばっている無数の馬糞はカラッカラに渇き、やがてコロコロコロコロと転がって川に入るのだ。そして溶ける。

 馬糞のことをモンゴル語でホモールという(発音は難しい)。牛糞のことはアルガルといって(これも難しい)、乾燥したものは貴重な燃料になるので、女や子供は草原のアルガルを拾い集めるのが大切な日課だ。味は知らないが、においはホモールよりアルガルの方が深みがある(とワシは感じた)。しかし、今はホモールの話である。

 なぜ馬糞の話になったかというと、それが治五郎の「原風景」だからだ。

 60年以上前の青森県東津軽郡平内町。冬は雪が積もるから、駅から自宅付近まで行くのにバスではなく馬そり(乗合)に乗せられた。4歳ごろのことだと思う。先頭の座席に座ると、目の前に大きなバケツ=馬尻が来る。

シッポが持ち上がったと思うと、馬がポトポトポトッと糞を落とした。それは豪快な景色であり、侮りがたい生命力はワシの幼心に深く刻まれたのだった。

ウニはバフンウニに限るというワシの固定観念は、この幼時体験と何か関係があるのか全くないのか? 今となっては、真相を知る人は世の中に一人も存在しない。