注文の多い理髪店

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 歩1分の「理容室 つばさ」に行ってきた。ここに入るのは初めてで、散髪=図はイメージ。著作権を主張しないでほしい=そのものが実に久しぶりだ。

オヤジが3人でやっている。60代、50代、40代(確かめたわけではない)。メニューで埋まった定食屋の壁面さながら、貼り紙が多い。

10分少々の待ち時間に観察すると、大半はサービス別の値段の概略と「60歳以上は200円割引」(ありがたい!)などの説明だが、気になる貼り紙もある。

「酒に酔って大声を出して騒いだり、暴れたりする方にはカット技術をすることはできません」「ひどい方がいれば警察に連絡します」

尾久警察署の電話番号も2か所に貼ってある。う~ん、どういう客が来るんだろう。

「大声で泣いたり動き回ったりするお子さんには、カット技術をすることができません」というのもある。「カット技術をする」とは独特な言葉遣いだが、散髪ではなくカット技術なんだというところに、職人の誇りとこだわりが感じられた。

50代の中堅の世話になる(実際は40前後かもしれない。なにせ彼自身の頭が、床屋に行く必要を感じさせない景色なので)。ワシは、うんと短く刈ってもらった。理容師の技量を云々する資格などないが、まあ「中の上」ではないだろうか。

支払いの段になったら自分の年齢を証明する必要があるのかと思いきや、何も聞かずに200円を割り引いてくれた。うれしいような、寂しいような・・・。

 

 

 

 

 

日本文化におけるサンマの役割(続き)

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キミ(♂)は、人妻とその幼い娘と3人でサンマ=写真=を食べたことがあるか? ワシは、ないと言えば嘘にならない。(ちょっと待てよ、ないと言えばウソにならない? ということは要するに、ないんじゃないか)

ないよ。しかしファミリーレストランで、幼い娘を連れた人妻と3人でアイスクリームを食べたことなら、ある。仕事絡みではない。ただ、詩の才能がないから「アイスクリームの歌」という作品は書いてない。

「秋刀魚の歌」は詩人・作家の佐藤春夫(1892~1964)の代表作だ。一人でサンマを食いながら人妻への恋慕をウジウジと女々しく(「女々しい」は今や差別語なので、取り消すにヤブサカではない)、しかし清らかに歌い上げている。

<あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ>(以下はバッサリ省略するが、その中で、3人で食べたサンマの味を追憶している)

<さんま、さんま  さんま苦いか塩つぱいか>(終盤も少し省略)

この人妻というのが文豪・谷崎潤一郎(当時はまだ若かった)の夫人で、谷崎が「妻を譲る」と言ったり取り消したり、結局は「譲る」ことに決めたりと、いろいろあった。現代であれば「このジジイ~! 女を何だと思ってる~!」(豊田女史風)という騒ぎになり、テレビのワイドショーは未曽有の忙しさに見舞われたに相違ない。

思うに、この詩は「秋刀魚」の歌だから名作と呼ばれるのであって「鰤(ブリ)の歌」とか「金目鯛(キンメダイ)の歌」では人の心を打たないだろう。もちろん「烏賊(イカ)の歌」や「章魚(タコ)の歌」などは、もってのほか!

付言すると、サンマの神髄はワタ(腸)の苦みにある。あの部分を捨てる人がいるようだが、そういう人に「さんま苦いか」の詩心は伝わらないのではあるまいか。

 

江戸落語の傑作に「目黒の秋刀魚」があり、名匠・小津安二郎監督の映画に「秋刀魚の味」がある(出演は笠智衆岩下志麻ほか)。金持ちや権力者から〝下魚〟と見下されてきた秋刀魚だが・・・ああ、早く今年のサンマ食いてえなあ。

 

 

 

日本文化におけるサンマの役割

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明石家さんまさん=写真=の話題ではないので、ファンは読まなくて結構。しばらくゲームか散歩でもして来て下さい。(歩きスマホはダメよ)

ラーメンを食べようかカレーにしようかと迷って、ラーメンに決めたとしよう。決めた瞬間から、舌も喉も胃袋も「ラーメン態勢」に入る。「さあ来い。今日は担々麺ではなくオーソドックスな醬油味だぞ! 麺が先か、スープから行くか?」てなもんや。

「チャーシューは2枚あってもいいな。ナルトと海苔は各1枚で十分。シナチク(メンマ)は、軟らかいもんなら多めに入れとくれやす」てなもんや。

ところが、友人とバッタリ会った。相手が♂の場合は「何を食う?」「何でもいいや」「じゃラーメンだ」となる。しかし♀だとそうはいかない(ことが多い)。

「ラーメンにしないか」「昨日ラーメンだったから、今日はキーマカレーがいいな。おいしい専門店を見つけたのよ」

舌と喉と胃袋が「な~にがキーマだ!」と一斉に不平を鳴らす。しかし食ってみるとキーマカレーもなかないけるので、ラーメンの幻影は雲散霧消。

昨夜は今秋初のサンマが食卓に上る予定だったので、全身「サンマ態勢」に入っていたのだが、スーパーに置いてないという(深刻な不漁らしい)。急きょ、マグロの山掛けに変更となった(これはこれで好物だから不満はない)。

庶民の味を代表するサンマ。あの人気タレントだって「明石家さんま」ではなく「明石家ひらめ」や「明石家めばる」を名乗っていたら、売れなかったのではないか。

今宵はタイトルのような格調高い考察を試みたかったのだけれど、ラーメンとカレーの問題に行く手を阻まれた。あす、再挑戦する所存であります。

 

 

 

騙される人、騙されない人

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A「おっ、三船敏郎だ! 懐かしいな。まだ生きとったのか」

B「ちょうど20年ぐらい前に亡くなったよ。確か1997年だ」

A「じゃ、なんで今ごろコマーシャルに出てるんだ?」

B「これは50年以上も前の映画『赤ひげ』の一場面だ。きっと映像に細工を施したんだろう。最近はそういう合成技術が長足の進歩を遂げているからね」

A「何か飲んでるぞ。サントリーの『胡麻麦茶』だって。そんなもん、赤ひげ先生は飲んでたかなあ。それに全体は白黒なのに、飲み物にだけ色がついてる」

B「ああ、それは黒沢明監督が『天国と地獄』でやってみせた手法なんだ。当時は驚かれたが、今はもう不思議でも何でもない」

A「一緒に出てる男は誰だ? 加山雄三じゃないよなあ、すっかり禿げてるし」

B「それは高橋克典。いや、高橋克己」(正しくは高橋克実

A「三船は声も昔のままだ。『旨い! これで皆も喜ぶことだろう』か・・・うん、確かに赤ひげ先生のセリフに、そういうのがあった」

B「あったかなあ。少なくとも、血圧130を超えると高血圧だ云々の話は映画には出てこなかったが」

 

世間ではAのような人を「天然」と呼び、Bタイプを「知ったかぶり」と言う。二人でそれなりに盛り上がっているところへ、C(30代、独身、♀)が加わった。 

C「あれはソックリさんを起用してるのよ。て言うか、中年イケメンを連れてきてソックリにメイクするわけ。この人は増田雄一というモデルさん(♡)。合成技術じゃなく彼とメイキングと演出を褒めなきゃ」「・・・」「・・・」(AもBも絶句)

白状すると、治五郎は騙されかけておった(知ったかぶりのBというのがワシです)。先日の検査では血圧が130を超えたので、コンビニに入るとつい胡麻麦茶が目に入る。CM製作者にとって、騙されやすい人間ほど「いいカモ」はいないのだ。

 

ところで「JT」は大丈夫なんだろうか?

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「今日も元気だ たばこが うまい!」

JT(日本たばこ産業株式会社)が「専売公社」だった昭和時代の名コピーである。大工さんだろうか、出稼ぎ労働者だろうか(芸能人でも学校の先生でもなさそう)。鉢巻をした「ニッポンのお父さん」が、たばこを片耳に挟んで(両耳だと少しヘンな感じになる)、未来の方向を明るく見据えている=写真=。

昔はこのように、たばこがうまい(と感じられる)ことが健康のバロメーターであったから、売る方も買う方も堂々と胸を張っていた。今はどうだろう。

もう20年近く前だと思うが、テレビドラマの1シーンにこんなのがあった(確か原作は筒井康隆)。ある男が、裏通りの〝たばこ密売所〟にやって来る。周りに人がいないのを十分に確認してから、宝くじ売り場みたいな小窓からサッと小銭を差し出し、声を押し殺して早口で「ハイライトを1個!」

筒井流のSFは、もうすぐ現実になりそうな趨勢だ。新幹線駅や空港にあるガラス張りの狭い狭い喫煙所。中にいる人に注がれる蔑みと憐れみの入り混じった視線・・・。

それにつけても心配なのが、4万人とも5万人とも言われるJT社員の行く末である。

「味には自信があります。皆さんどうぞ!」などと自社製品を表立っては勧められない苦境に、彼らは立たされている。こんな企業が、ほかにあるだろうか。

「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります」。体への害や、マナーを守ること以外に宣伝する手段がない。これは相当、つらいことではないだろうか。イケナイものを作って売っているとなれば、社員の家族も肩身が狭いだろう。

ワシ自身の吸える場所もどんどん少なくなってきたことはさておき、JT関係者の無念と屈託を思いやると、治五郎は居たたまれない気持ちになるのである。

 

 

 

 

顔と名前が一致する人物はどのくらい存在するか

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「え~っと、娘夫婦と孫と、隣の遠藤さん夫妻と、昔の教え子で今は医療刑務所にいる斎藤君と・・・」「年賀状は毎年150人に出しとったが、半分死んで今は75人」

いや、そういう話じゃないんだよ、おじいちゃん。面識の有無ではなく、例えば福沢諭吉野口英世美空ひばり安倍晋三なども含めると、どのくらいいるかという話。顔を見れば名前が、名前を聞けば顔が、パッと思い浮かぶ人は何人ぐらいいますか? 

「有名人ということか。どれ、50音順で行くと、アーノルド・シュワルツェネッガー相田みつをアインシュタイン赤川次郎赤塚不二夫阿川佐和子・・・」

もういいよ、おじいちゃん。指折り数えてたら大変だから、存命中の日本人に限定するとして具体的な数字は要らないから、ざっと大体のイメージとしてどんな感じ?

「う~ん、こんな感じ=写真=かのう」

このおじいちゃんの脳は、まだまだ衰えていないと言えるだろう。治五郎も、かつてはこの何倍かの顔と名前をセットで認識していた時期がある。

が、50歳を過ぎる頃から名前の方が出てこなくなった。50代も後半になると、例えば芸能人の取材に行って、相手が何の映画やドラマに出演した人かはよく知っているのに、名前だけフッと消えることがある。

話を聞きながら、ずっと考えているのだが思い出せない。日本人は欧米人と違って、相手のことを「あなた」ではなく「○○さん」と名前で呼ぶのが礼儀だとする傾向があるので、名前が出てこないのは非常に難儀なのである。

のみならず、マスコミ人が覚えなければならない顔と名前は、増えこそすれ減ることは決してない。その増え方がまた、最近は尋常ではない。ここ10年で有名になった人は、芸能界なら芸能界に限っても、この写真ぐらいの数になるのではないだろうか。とても覚えきれるものではない。

後輩の○○君は、定年目前のワシに「あと4年や5年は勤められるでしょう」と慰留してくれたが、ワシが60歳の誕生日に「もう潮時」とキッパリ辞めたのには、そういう事情も実はあったのだよ、○○君。(嗚呼、○○という名前が思い出せぬ。無念!)

 

 

 

 

 

 

横綱〝土竜〟の休場を責めないで下さい

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明日から大相撲の秋場所だが、4横綱のうち3人が休場するという異例の事態である。理由は3人とも、ケガが完治しないこと。「横綱のくせに根性が据わってない」「気合いだ、気合いだ、気合いだ!」と叫びたがる向きもあろうが、まあまあまあ。

横綱大関の違いは何か? 一番上が横綱で次が大関、とは幼児でも答えられるだろうが、本当の違いは「横綱にはカド番がない」ということだ。

負け越したら即、引退。だから序盤で3敗でもしようものなら、口実は何でもいいから診断書を提出して休場しなければならない。そうすれば、とりあえず来場所には出直せる。今場所、一人だけ出場する日馬富士が心配だ(彼だって満身創痍なのに)。

鶴竜(名は力三郎)関=写真=の休場は、3場所連続となる。白鵬のような圧倒的実力も、稀勢の里ほどの期待度・注目度もないが(ゴメンね)、あまたいる外国人力士の中で、この横綱ほど自然な日本語を身につけた人はいないと思う。

本名はAHANД(ANAND)。アナンダと呼ばれているが、Д=Dは子音だから正確にはダでもドでもない。アナンダにはどんな意味があるかというと、それはモンゴル人もよく知らないらしい(あ、なんだ)。

この写真は、平幕力士に金星を配給してしまった後に髷を結い直してもらっているところ。何かの小動物に似ていると思いませんか? そう、モグラ(土竜)です。不用意に穴から出て来たもんだから、太陽が眩しくてたまらい様子だ。

ワシはかねて、しこ名は「鶴竜」より「土竜」の方がいいと提言してきた(誰に)。ともあれ、11月の九州場所には進退がかかる。体を治して頑張れ土竜。

 

 

 

 

 

 

土屋嘉男さんの訃報とクロサワ作品の出来・不出来

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俳優の土屋嘉男さん=写真=が今年2月、肺がんのため89歳で亡くなっていたことが分かった。半年以上が過ぎている。(芸能記者諸君は何をしているのか?)

ワシが「さん」付けで呼ぶのは、彼の自宅や酒席で計3回ほど話を聞いたことがあるから。1998年9月に黒沢明監督が死去した際が最初だった。

無名時代の黒沢が映画館へ行くと隣の女性客が、邦画の上映中は暗い中で本を読んでいるのに、洋画になると身を乗り出して熱中する。「チッキショー、今に見ておれ!」と思った、と黒沢自身に聞いたそうだ。

UFOの存在を信じる土屋さんがUFOの話を始めると、他のスタッフは「またか」とウンザリした顔になるが、監督だけは常に真顔で耳を傾けていた、とも。

「世界のクロサワ」を印象付けた最高作は何といっても「七人の侍」で、治五郎にも全く異論はない。志村喬三船敏郎ら7人の〝侍〟役に土屋さんは含まれていない(8人目とでも言うべき百姓の役)が、以後は黒沢作品の名脇役として重用された。

黒沢作品と言えばワシの場合、「生きる」「天国と地獄」「赤ひげ」あたりには唸らされたものだが、カラーが普通になる頃からガクンとつまらなくなった。

遺作となった「まあだだよ」は、我が百鬼園こと内田百閒先生が主人公とあって何か月も前から楽しみにしていたのに、見たら奈落の底に落ちるような失望を味わった。キャストも失敗だ(百閒役の松村達雄ダメ、井川比佐志ダメ、所ジョージもダメ)。僭越ながら「百閒のことが何も分かってねえんじゃねえの?」と思ってしまう。

 土屋さんには「思い出株式会社」(正続、清水書院)という著書もある。こなれた文章の名エッセーだ。黒沢明の(老巨匠となってからではなく)全盛期に、何本もの作品に出演できたことは役者冥利に尽きようというものだ。

(土屋さん、7か月遅れになってしまいましたが・・・黙祷)

戦争とスポーツと闘争本能(続き)

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治五郎は、闘争本能に障害があって「勝つ」ことへの嫌悪感がある。従ってスポーツは見るだけで、自分がやることは出来ない。という話をした。

この困った性格を改めようとせず、放置すればどういう方向へ進むかというと、あの宮沢賢治さん(1896~1933)の世界に近づかざるを得ないように思う。

彼は優勝劣敗=生存競争というものに対する極度のアレルギーがあった、と治五郎は分析している。おいしい肉や魚を食って食欲を満たしたり、異性の肉体によって自分の性欲を満たしたりすることに強い罪悪感があった。青年期以降、ベジタリアンだったことは事実のようだし、死ぬまで童貞だったという説にも説得力がある。

世の中、こういう人ばかりだと戦争など起こりようがないのだが、栄養士は「動物性たんぱく質を摂らなきゃダメよ」と言うし、神社仏閣は当然のことのように「子孫繁栄」を奨励する。賢治タイプの人は、まことに生きづらいのである。

治五郎はどうかというに、少食とはいえ雑食性でアンコウの肝と羊の脳みそが大好物と来ているし、若気の至りで子供も二人生んだ(ワシが生んだわけではないが出産の原因を成した)。賢治さんに顔向けできない。

彼の理想は、有名な「デクノボー」だ。地獄と極楽があるとすれば(ワシはないと思うが)デクノボーは極楽に行くとしか思えない。

しかし極楽は極楽で結構、つらいと思うよ。何のトラブルも悩みや苦しみもなく朝から晩まで、蓮=写真=の台(うてな)に座って「いつも静かに笑っている」・・・これは〝退屈地獄〟だろう(と言ったらバチが当たる? 当たらないとワシは思うが)。

 

 

 

戦争とスポーツと闘争本能

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敵を倒して勝ちたいという本能が、太古から人類にはあるようだ(人類以外の動物にも)。それで戦争というものがなくならない。

「勝って喜びたいならスポーツだけにして、ほかは一切の『勝敗』を国際法で厳禁にしたら?」という意見は昔から存在した。オリンピックも、根底にはその精神があるだろう。一見すばらしい発想なのだが、これは「愚かさ」という人類の普遍的な本質を見落としていると思う。

各国の歴代独裁者を引き合いに出すまでもなく、死ぬまで(死んでも)治らないバカという性質を持つ人間の数は、何千年たっても決してゼロにならないのではないか。

治五郎はスポーツ観戦が好きな方だが、自分でスポーツをやりたいとは思わない。思ったって今からじゃ物理的に無理だが、少年時代からそうだった。なぜか?

「勝つ」ことが嫌なんですよ。もう、嫌で嫌でしようがない。

サッカーでも野球でもバレーでもテニスでも相撲でも、スポーツの基本原理は同じことだが、今回はバドミントンを例に取ろうか。「タカマツ」ペア=写真=にワシは惜しみない声援を送る者である(特にマツの方はどこか〝ネズミ系〟の愛らしさがあって、本人は気を悪くするかもしれないが、ワシは好感を隠さない)。しか~し。

試合を見てみたまえ。敵=相手が「そこには打ち込んでほしくない」「あ、そこだけは堪忍どっせ」という、まさにその弱点を「え~い、これでもか、これでもか!」と攻め立てる(情け容赦もなく)。ネズミが鬼のような形相になっている。

そして大接戦を制したとしよう。負けた相手=敵は「昨日までの自分の努力は何だったのか」と泣き崩れている。それを見て、勝った自分は「やった~!」と満面の笑みを浮かべたりできるものなんだろうか。(ワタクシには出来ません)

打ちひしがれた相手の姿が視界の片隅にでも入ったら笑うことなどできなくなるのが、本来あるべき人間の姿ではないのか。え? おい、どうだ。ドン!(机を叩く音)

勝って喜ぶことに誰も疑問を抱かないようだが、この治五郎の考えは間違っているのだろうか? そこんところが、ワシにはよう分からんとよ。(続きはまた明日にでも)