モンゴル語知らずのモンゴル語講座
日本に住む夫婦の国籍が違うと、どういうことが起きるか。いろ~んなことが起きうるのだが、まず、会話能力の格差が拡大の一途をたどるという現象が生じる。
治五郎の場合に即して考察を進めてみよう。ワシ(日本人)は、過去26年間にモンゴル=写真=へは7~8回行ったが、滞在期間は全部合わせても5か月に満たない。一方、モンゴル人の妻は20代前半で来日して以来、かれこれ20年近くずっと日本で生活してきた。通訳も翻訳も、プロでやっていけるレベルには達しているようだ。
名前を挙げては申し訳ないが(挙げなきゃいいだろ)、ドナルド・キーンさんやアグネス・チャンさん、横綱・日馬富士関よりも日本人に近い自然な日本語を話す。
自分の不勉強を棚に上げるわけではないが(と言いつつ棚に上げるのだが)、彼女の日本語能力が今も日進月歩を遂げ続けているのと対照的に、ワシの片言モンゴル語は退化する一方だ(どうも、日本語でさえ退化し始めている)。
一緒に暮らしてるんなら何でも教えてもらえばいいだろう、と思うでしょうが、そう簡単に事は運ばない。会話の構成要素にレベルの違いがあるのだ。
「この牛肉(あ、見栄を張りました。鳥レバーです)は、うまい! どこで買った?」という程度のモンゴル語なら話せる。しかし「今回の衆議院選挙の結果を見て、何を感じたか。日本の将来はどうあるべきか」というような話は日本語でないと無理だ。
「モンゴル語で『衆議院』を何と言うか。『当落』は。『立憲』は」てなことを、いちいち尋ねていると夫婦の会話は先に進まない。
彼女の名はアルタンツェツェグと言って、キリル文字で Aлtanцэцэг(ローマ字表記に直せば Altantsetseg)と書く。直訳すると「金色の花」だ。このスペリングなども普段は書く必要に迫られないので、ややもすると怪しくなりがち。
ブログ読者のためではなく自分のために、知っているモンゴル語をときどき書き留めておかなければ、と愚考した次第である。(興味のない人は読み飛ばして下さい)